【解説】文庫解説、あるいは“調合”と“融合”について――『作者不詳 ミステリ作家の読む本』三津田信三【文庫巻末解説:澤村伊智】

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三津田信三『作者不詳 ミステリ作家の読む本』全面改稿の決定版 文庫巻末解説

澤さわ村むら 伊い智ち(作家)

 三み津つ田だ信しん三ぞうさんはホラーミステリ作家である。

 三津田さんの作風は「ホラーとミステリの融合」である。

 少しでも三津田作品に触れたことのある方なら、右の文章はすんなり飲み込めるだろう。私個人としても三津田さんと三津田作品を、そのように定義することに抵抗はない。何より本作『作者不詳 ミステリ作家の読む本』(以下「本作」)はホラーミステリというジャンルの、一つの完成形である、と捉とらえている。

 いや待て。その前にホラーミステリとは何だ? ホラーとミステリを「融合」するとはどういうことだ? その「完成形」とは? そもそもこの文章を書いているお前は何者だ? 諸々すっ飛ばして筆を進めたことをお詫わびしたい。

 私は三津田作品の影響を受けてホラーミステリを書くようになった小説家で、端的に言えばフォロワーの一人だ。この文章では実作者の観点から、ホラーミステリについて、本作の素晴らしさについて、そして三津田さんの作品について解説していきたい。まずは本作の粗筋から始めよう。


「僕」こと三津田信三とその友人・飛鳥あすか信しん一いち郎ろうは、奈良県杏あん羅ら市杏羅町にある古書店〈古ふる本ほん堂どう〉で、『迷めい宮きゆう草ぞう子し』なる奇妙な同人誌の創刊号を入手する。実話を元にしたらしい七つの物語から成るその同人誌を読むうち、彼らの周りに不可解な現象が発生。読み終えた収録作と怪現象の符合に気付いた二人は、ほどなく「収録作に残された『謎』を推理によって解明すれば怪現象は収まる」という法則を発見する。幻想譚、伝承の絡む密室消失事件、血みどろスプラッタホラー……様々な趣向が凝らされた収録作を読み進め、迫り来る怪異に命を脅かされながら、三津田と飛鳥は果敢に謎に挑む。そして『迷宮草子』それ自体が孕はらむ謎にも迫ろうとするが──


 本作の構成を大まかに言うと、『迷宮草子』収録短編→それを読んだ三津田信三と飛鳥信一郎が怪現象に見舞われる→二人が収録短編の謎を推理で解き明かす→怪現象が止む、の繰り返しである。作中作『迷宮草子』を軸にした連作短編に近い構成を持った長編、と言い換えることもできるだろう。これがどう素晴らしいのか。なぜ「完成形」なのか。順を追って説明していく。

 ホラーミステリとは何か? そう訊きかれたら、私はひとまず「ホラーっぽい(と読者の多くに了解される)要素と、ミステリっぽい(と読者の多くに了解される)要素が混在した物語」と大雑把に答える。「ホラーもミステリも一八~一九世紀のゴシック・ロマンスから派生したジャンルで云々」「ミステリの歴史においてホラー要素の濃い作品はどの時代にも存在していて云々」といった歴史的な話は一いつ旦たん置いておく。「『人間業とは思えない怪事件を推理で解き明かす』という定型から分かるとおりミステリはそもそもホラーを内包していて云々」「ホラーのプロットもミステリに準じたものになる傾向があるので云々」といった構造的な話も脇に置いておく。

 ホラーっぽくて、ミステリっぽい。

 すなわちホラーとミステリの融合。

 私の考えでは、その融合のさせ方、調合の匙さじ加減こそ作者の腕の見せどころであり、各作品の魅力の一翼であり、ホラーミステリ作品の評価軸の一つである。

 吸血鬼、ゾンビ、伝承の化け物といった定番ホラー要素が、単なるミステリの装飾にしかなっていない作品は、程度にもよるが「ダメなホラーミステリ」だろう。調合の仕方がお粗末すぎるからだ。全部推理で解き明かされてしまっては最早「単なるミステリ」で、調合していないのと変わらない。

 ツイストやサプライズ、どんでん返しのあるホラーはどうだろう? 言い換えると「ミステリの手法で書かれたホラー」で、私見ではホラーミステリと呼んで差し支えない。後はそれらの手法の効果や周到さ(伏線の丁寧さなど)、或あるいは主題との関連性によって作品ごとの評価を下すべきだろう。調合の問題は既にクリアされており、次に問うべきなのは作品そのものの出来、というわけだ。

 では正体不明の化け物の謎を推理で突き止めるホラーは? 「犯人は幽霊でした」と明かされるミステリは? 私がホラーミステリを大雑把に捉え、「調合」を持ち込むのは、こうしたことを一人で考えたり、誰かと語り合ったりするのが単純に楽しいから、かもしれない。

 さて本作である。

「本を読んだ人物が呪われたので、本の記述をもとに推理することでそれを解く」という大筋はホラーミステリとしてバッチリ融合、調合できている、と考えていいだろう。周到なのは「収録作の謎を解けば目の前の怪現象こそ収まるが、呪いが全て解けるわけではなく、その仕組みが暴かれるわけでもない」という点。ホラーミステリ否定派はしばしば「ホラー要素を推理(=ミステリ)で解体してしまっては興きよう醒ざめだ」というようなことを言う。個人的に彼らのホラーミステリ観は極めて一面的で貧弱だと感じるが、その意見には一定の説得力があると言っていい。だが本作は、そうした「興醒め」が起こらない設計なのだ。三津田・飛鳥の二人が解くのはあくまで各収録作の謎である。もちろん「そもそも『迷宮草子』は何なのか?」という大きな謎を解き明かそうと試みてはいるが、そのためには収録作を順に読み続け、怪現象に見舞われ続け、小さな謎を解き続けなければならない。

 呪いが謎解きを誘発している。つまりホラーがミステリを要請している。或いはミステリがホラーに取り込まれている。

 本作を初めて読んだ私は、その周到な作りに感嘆し「この手があったか!」と大いに膝ひざを打った。


 加えて素晴らしいのは『迷宮草子』収録作七編すべてが広義のホラー/ミステリ/ホラーミステリのいずれかであり、バラエティ豊かに取り揃えられている点だ。

「霧の館」は怪奇幻想譚。「子喰鬼縁起」は不気味な民間伝承が絡み、乱歩的な本邦アングラ趣味が横おう溢いつした密室消失ミステリ。「娯楽としての殺人」は猟奇事件オタク、ミステリオタク、ホラーオタクの饒じよう舌ぜつさに苦笑を禁じ得ないメタミステリ。「陰画の中の毒殺者」は怪談じみた語りで記述される密室毒殺事件。「朱雀の化物」は高校生たちが別荘で仮面の殺人鬼に惨殺されるスラッシャー/スプラッタホラー。「時計塔の謎」はある女性を襲った悲劇と、その舞台となった“空中密室”にまつわる甥おいの回想。「首の館」は絶海の孤島に集まった同人作家たちが次々と惨殺される“テン・リトル・インディアン型”ミステリ……。

 書いているだけで楽しい。そしてこの豊かさ楽しさもまた周到さの産物だ。「小説の謎を読者が解く」というメタ構造を設ければ、小説それ自体はミステリの定型をなぞらなくてもよくなるのだ。謎を残し、ヒントさえ書いておけば、小説本編には推理パートも解決パートも要らない。「メタ構造がミステリの不自由さを解消している」と言い換えられるだろうか。いずれにしろ「上手うまい」の一言に尽きる。

 また、どの作品も三津田・飛鳥の二人による「推理」「真相」込みで非常に面白く、特に「朱雀の化物」については本編の凄すさまじさ、伏線の巧みさ、明かされた真相のシンプルさ、それ故の陰惨さ、全て溜ため息いきが出るほど素晴らしい。もしホラーミステリアンソロジーを編め、と頼まれたら私は絶対「朱雀の化物」を候補リストの筆頭に挙げるだろう。最大の問題は「推理パートと解決パートをどうするか」だが……鮎あゆ川かわ哲てつ也や編『本格推理③迷宮の殺人者たち』に収録されたバージョンの「霧の館」と同じアプローチを取れば解決するが、それはとりもなおさず「改悪してください」と三津田さんに頼むに等しいので絶対にできない。どうにも困った次第である。


 さて。

 察しのいい方は薄々お気付きかもしれないが、先述した私のホラーミステリ観には、ある重大な要素が欠落している。

「恐怖」である。

 厳密には、私が恐怖を感じたこと。私にとって怖かったこと。
 欠落させた理由も察しが付くだろう。これを予あらかじめ定義に含めてしまうと、ほとんどのホラーミステリはホラーミステリでなくなってしまい、話が進まないのだ。私はかなり「ビビり」「怖がり」の部類に入るが、これまでたくさんの「怖い話」に触れている。結果、怖いという触れ込みの作品を、実際に怖いと思うことは滅多にない。自慢にもならない、というより愛好家としてむしろ恥ずべきことだと思っているので、なるべく公言しないことにしているが。

 だが、本作は怖かった。読んでいてゾクゾクした。『迷宮草子』収録作で言うと先述した「朱雀の化物」。それ以外だと「水曜日」と「金曜日」の怪現象の描写。何より「小説を読めば呪われる」という筋の小説の中で、実際にその呪いの小説本文を読まされるメタ構造。拙作『ずうのめ人形』は直接的には鈴すず木き光こう司じ『リング』のオマージュであり、ミステリ趣向は殊しゆ能のう将まさ之ゆき『鏡の中は日曜日』を参照したが、この文章を書き進めるにつれ、本作からの影響も極めて大きいことに改めて気付かされた。


 ホラーとミステリの融合・調合が巧みで、メタ構造を採用することで双方の豊かさも確保し、何より「怖い」。

 以上が、私が本作を「ホラーミステリの一つの完成形」と捉える理由である。他の誰がどう言おうと、この認識は揺らぎそうにない。むしろ小説で口に糊のりするようになって、ますます強まっている。その素晴らしさ偉大さに慄おののくほどだ。

 それでも、いつか本作とは別の「完成形」を書きたい。世に出したい。そう思って私は今日も小説を書くのである。


 ここで終わらせても解説として成立しているだろう。だが私はまだ筆を置く気はない。書けば書くほど、三津田さんの世間的評価が不充分だと感じたからだ。

 繰り返しになるが、三津田さんの作風は「ホラーとミステリの融合」だ。私もそう思う。だが、三津田さんが融合しているのは、果たしてホラーとミステリ「だけ」だろうか?

 私はこの問いに「否」と答えたい。根拠は本作の、というより三津田作品全般の根幹を為す要素の一つ「メタフィクション」の在り方だ。メタフィクションの定義については後述するので、ご存じない方はしばし我慢して読み進めていただきたい。

 自作のメタフィクショナルな指向について、三津田さんは先行作品からの影響を各所で公言している。江え戸ど川がわ乱らん歩ぽ「陰獣」、ピーター・ストラウブ『ゴースト・ストーリー』、そしてエリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』の三作だ。私はどれも読んでいるが、『パラダイス・モーテル』の終盤の展開に激怒したことが特に印象深い。「ふざけんな!」と思ったのだが、これについても後述する。

 メタフィクションは様々に議論され定義付けられているが、ここではひとまず小説に限定し、なおかつ二つに大別してみよう。「小説におけるメタフィクションは二種類ある」と定義してみるのだ。まず一つ目は──

①「これは小説ではない」(=現実である)と読者に強く意識させる文章上の技法

 これについては説明不要だろう。本作で採用されている「作者と同姓同名の小説家が主人公/記述者」がまさに当てはまるからだ。他に挙げるなら、小お野の不ふ由ゆ美み『残ざん穢え』、都つ筑づき道みち夫お『怪奇小説という題名の怪奇小説』、芦あし沢ざわ央よう『火のないところに煙は』などなど、いくつものホラー/怪談作品が思い浮かぶ。読者を怖がらせたい時「これから書くことは実話です。作者が頭の中で拵こしらえた作り話ではないんです」と謳うたうのが定石なのは、この手の分野に明るくない人でも感覚的に理解できるだろう。そしてもう一つのメタフィクションは──

②「これは小説である」(=虚構である)と読者に強く意識させる文章上の技法

 一般的にメタフィクションと呼ぶ場合、こちらの方に該当することが多い。小説も同様で、竹たけ本もと健けん治じ『匣はこの中の失楽』、筒つつ井い康やす隆たか『虚人たち』、夢ゆめ野の久きゆう作さく『ドグラ・マグラ』、舞まい城じよう王おう太た郎ろう『九ツ十ク九モ十ジユウ九ク』、『ディスコ探偵水曜日』、「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。」など、①より多くの作品がすぐに思い浮かぶ。

 ②の効果としては文章だけが表現できる複雑な構造の迷宮感、酩めい酊てい感、あるいは不安──といったところだろうか。ただ、②は読者の没入感を著しく削そぐおそれがある。私が『パラダイス・モーテル』に激怒したのはまさにそれが原因だ。「たかが小説ごときでなにムキになってんの?」と作者に嗤わらわれたような気がしたのだ。先日『パラダイス・モーテル』を再読してみたところ激怒こそしなかったものの、かつて腹が立ったのと同じ箇所で、ちょっとだけムカついたことをここで報告しておこう。

 ①と②、二つのメタフィクションは、常識的に考えて対立している。矛盾している。つまり両立しない。するわけがない。「この小説は虚構であり現実である」と読者に強く意識させることは、どう考えても不可能だ。しかし──

 もうお気付きだろう。

 三津田さんは一見したところ①のメタフィクションを指向しているが、実際は②もかなり採用している。というより一つの作品で①と②、相反する二つのメタフィクションを融合しようとしているのだ。本作の結末はまさにその実践だ。近著だと『みみそぎ』でより明快にその融合を見て取れる。①の生々しさと②の不安を、同時に読者に与えようと腐心している。それはホラーとミステリを融合することよりずっと困難で伝わりにくい。だが読者を恐怖させる物語において極めて有効だ。メタフィクションとは煎せんじ詰めれば「あなたはこの文章を読んでいる」という脱出不能な罠わなを読者に仕掛けることだからだ。追求する意義がある。融合する価値がある。おそらくそう信じてデビュー当時からこうした作風で執筆活動を続けていらっしゃるであろう三津田さんを、私は改めて「すげえ!」と畏い怖ふしてしまうのだった。


 三津田信三さんはホラーミステリ作家である。

 三津田さんの作風は「ホラーとミステリの融合」である。

 と同時に「二つの相反するメタフィクションの融合」でもある。

 そう再定義して本稿を終えたい。