「鮎川哲也・島田荘司」から「青崎有吾・知念実希人」へ
二○一八年七月八日、「講談社タイガ」と「新潮文庫nex」という二つの文庫レーベルが、東京大学・京都大学・慶應義塾大学・早稲田大学それぞれのミステリ研究会によるビブリオバトル形式で対決するというイベントが開催された。
両レーベルの代表としてエントリーされたのは、講談社タイガ側は青崎有吾の『アンデッドガール・マーダーファルス1』(二○一五年)と『アンデッドガール・マーダーファルス2』(二○一六年)、新潮文庫nex側は知念実希人の『幻影の手術室 天あめ 久く 鷹たか 央お の事件カルテ』(二○一六年)と『甦る殺人者 天久鷹央の事件カルテ』(二○一七年)だった。発表時期こそほぼ同じながら、かたや吸血鬼などのモンスターや、シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパンらフィクションのヒーローが実在するパラレルワールドのヨーロッパを舞台にした怪奇本格ミステリ、かたや天才医師が専門知識を活かしてさまざまな難事件を解決してゆく医療本格ミステリ……と、対蹠的な作風同士の対決というかたちになっていたのも面白かった(ビブリオバトル終了後の第二部では両作家の対談も開催された)。
ビブリオバトルのレポートは講談社の電子雑誌《メフィスト》二○一八年二号(七月発売)に、両作家の対談の内容は本誌に掲載されるようなのでそちらを参照していただくとして、審査員のひとりとして立ち会っていた私にとって、感慨深かったことのひとつが両作家の出自である。
知念実希人は一九七八年生まれ、デビューは二○一一年、島田荘司が選考委員を務めている第四回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を『誰がための刃 レゾンデートル』で受賞。青崎有吾は一九九一年生まれの平成世代で、デビューは二○一二年、『体育館の殺人』で第二十二回鮎川哲也賞を受賞……という出身である。島田荘司といえば、新本格誕生の前から本格ミステリ界の旗手として目ざましい活躍を示していた作家であり、鮎川哲也は更に以前から本格一筋の執筆歴を持つ、レジェンドともいうべき大物である。そして、両者とも新本格の勃興にあたって、新人作家を力強く応援していたという共通点がある。鮎川は二○○二年に逝去したものの、その名を冠した鮎川哲也賞は今も青崎のような本格ミステリ系新人作家を世に送り続けている。新本格が誕生して三十年以上経った今も、それを支援した二人の大家の影が青崎・知念という作家たちの背後に重なって見えるというのが、リアルタイムで新本格を読み続けてきた私にとってこのビブリオバトルが感無量だった所以ゆえん のひとつである。
知念にとっては十代初めがちょうど新本格の誕生期にあたり、青崎にとっては生まれた時にはもう新本格が存在していた……という世代的な差異はあるけれども、彼らにとって、新本格がメインストリームになっていた時代に読書歴が始まったことも共通点だろう。ちょうど昨年(二○一七年)は新本格誕生三十周年にあたるが、もともとは出版社によるキャッチコピーだった「新本格」という言葉がそんなにも長く延命するとは、当初は誰も予想しなかったに違いない。探偵小説研究会・編著『2018本格ミステリ・ベスト10 』(二○一七年)は新本格三十周年特集を組んだが、法月綸太郎・三津田信三・青崎有吾による鼎談の中で、青崎は「僕は麻耶雄嵩さんがデビューした年に生まれたんですよ。(中略)なので、物心ついたときには新本格が国内にすっかり定着していました」「リアルタイムでは追えませんでしたし、新本格はあって当たり前という印象が強かったです。なので、批判があった(引用者註・初期の新本格へのバッシングのこと)というのが、皮肉ではなくて本当に意外でした」と述べている。この感覚は、後述の白井智之など、他の平成生まれの作家にとっても同様だろう。
ここで、講談社タイガと新潮文庫nexというレーベルの性格にも触れておくと、前者は二○一五年、後者は二○一四年と創刊はほぼ同時期で、想定している読者層もかなり重なっていると見て良さそうだ。かつて新本格ブームを支えたノベルス(新書判)が衰退し、書き下ろし文庫が増えた今、毎月複数の新刊をコンスタントに刊行している両レーベルは、かつてのノベルスに代わる勢いを感じさせる。ミステリに限らず、ファンタジーやSFやホラーといったエンタテインメント全般をフォローしている点も、両レーベルの似通った部分と言える。講談社タイガが書き下ろしのシリーズもので揃えられているのに対し、新潮文庫nexにはノン・シリーズ作品や再文庫化作品、江戸川乱歩のような昔の大家の少年小説も含まれている……といった相違はあるにせよ、若い世代の読者をターゲットにしている点は共通している。恐らく、ここには温故知新としての戦略が存在していた筈だ。
それがどういう意味かを説明するために、遠回りになるのは承知で、ここで改めて新本格の歴史を振り返っておきたい。なお、文中で言及する作家のデビュー年は商業出版で第一作を刊行した年を基準としているけれども、実際にはそれ以前に自費出版や電子書籍などのかたちで小説を公表している作家もいることをお断りしておく。
「新本格」の誕生
一九八七年、講談社ノベルスから綾辻行人『十角館の殺人』が刊行されたのが新本格の発祥であるということは、既に通説となっている。それに続き、一九九○年代初頭にかけて、講談社からは『長い家の殺人』(一九八八年)の歌野晶午、『密閉教室』(一九八八年)の法月綸太郎、『8の殺人』(一九八九年)の我孫子武丸、『僕の殺人』(一九九〇年)の太田忠司、『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』(一九九一年)の麻耶雄嵩らが陸続とデビューする(彼らの作品は主にノベルスで刊行されたが、麻耶のようにデビュー作が単行本だった例もある)。なお、「新本格」という言葉自体は、綾辻の第二作『水車館の殺人』(一九八八年)の講談社ノベルス版の帯に使われたキャッチコピーに端を発しており、最初から深い戦略があって命名されたわけではなかったけれども、使い勝手の良さから、次第に講談社デビュー組に限らず、この当時デビューした本格ミステリ作家、あるいはそのムーヴメントを示す言葉として普及していった。
同時期、翻訳ミステリの老舗として知られていた東京創元社は、折原一の『五つの棺』(一九八八年。文庫版は増補されて『七つの棺』と改題)を刊行し、国内作家の育成に力を入れはじめる。一九八八年からは全十三巻の国内作家書き下ろし叢書「鮎川哲也と十三の謎」をスタートさせ、有栖川有栖『月光ゲーム Yの悲劇'88 』(一九八九年)、宮部みゆき『パーフェクト・ブルー』(一九八九年)、北村薫『空飛ぶ馬』(一九八九年)、山口雅也『生ける屍の死』(一九八九年)といった新人のデビュー作を続々と世に送った。最後を飾る十三冊目(厳密に言えば、十二冊目として刊行予定だった鮎川の『白樺荘事件』は未完のまま終わり、生前は刊行されなかった)は「十三番目の椅子」として一般公募した結果、今邑彩『卍の殺人』(一九八九年)がその座を射止めたが、この企画から発展したのが鮎川哲也賞である。『殺人喜劇の13 人』(一九九○年)の芦辺拓、『ななつのこ』(一九九二年)の加納朋子、『凍える島』(一九九三年)の近藤史恵、『化身──アヴァターラ』(一九九四年。文庫版は『化身』と改題)の愛川晶らを大賞受賞者として輩出し、受賞者以外からも『吸血の家』(一九九二年)の二階堂黎人、『慟哭』(一九九三年)の貫井徳郎、『琥珀の城の殺人』(一九九二年)の篠田真由美ら実力ある書き手が世に出ている。「鮎川哲也と十三の謎」のあとを継ぐ叢書も数種類企画され、中でも一九九一年スタートの「創元クライム・クラブ」は、二○一八年現在も続く長寿叢書として知られる。なお、一九八七年に第七回横溝正史賞を『時のアラベスク』で受賞してデビューした服部まゆみのように、他社出身だが東京創元社からも本を出すようになった作家もいる。別に講談社と東京創元社が示し合わせて新人作家を世に送り出したわけではないものの、結果的に、講談社の宇山日出臣、東京創元社の戸川安宣という両編集者のカラーがそれぞれ強く出た二つの流れが、合流して初期新本格(第一ステージと呼ぶ場合もある)を形成したかたちになる。先述の通り、当初は主に小説としての未熟さに対するバッシングもあったものの、それも次第に鎮静化してゆく。
新本格第一ステージのすべてがそうだったわけではないにせよ、その多くのデビュー作に共通していたのは、若者を主人公または主要登場人物とする青春ミステリ仕立てになっている点だった。例えば綾辻行人『十角館の殺人』、歌野晶午『長い家の殺人』、法月綸太郎『密閉教室』、斎藤肇『思い通りにエンドマーク』(一九八八年)、有栖川有栖『月光ゲーム Yの悲劇'88 』、太田忠司『僕の殺人』、芦辺拓『殺人喜劇の13 人』などがこれに該当する。彼らのデビュー作が青春ミステリ仕立てとなった理由はケース・バイ・ケースだろうが、多くの作家の場合、自分に近い世界だから書きやすかったからという理由を想像し得る。同時に、従来のミステリに飽き足りない若い世代のミステリファンをターゲットに想定した作家および出版社の戦略もあったのではないか。
というのも、綾辻の第二作は『水車館の殺人』、歌野の第二作は『白い家の殺人』(一九八九年)、法月の第二作は『雪密室』(一九八九年)……といった具合に、各作家の第二作以降に目を向けると、必ずしも青春小説仕立てではない、むしろ古典回帰を感じさせるテイストの作品が多いのだ。仮定の話は無意味かも知れないけれども、もし彼らがそれらの第二作でデビューしていたならば、果たして新本格はここまで盛り上がっていただろうか……といったことを、私はどうしても考えてしまうのだ。どこまで具体的な戦略だったかどうかはともかく、各作家の第一作に青春ミステリ的な作品を持ってきたことは、イメージ的に新本格が若い読者層にアピールする大きな要因となった筈だ。
この新本格=青春ミステリというイメージは初期に限られており、一九九○年代初頭からは「いろいろある傾向の中のひとつ」にすぎなくなってゆく。しかし、今世紀に入っても、第三回本格ミステリ大賞を受賞した乙一の『GOTHゴス リストカット事件』(二○○二年。文庫版は『GOTH 夜の章』『GOTH 僕の章』の二分冊)のような暗黒青春ミステリを経て、後述の二○一○年代における「日常の謎」系の学園ミステリの流行、ライト文芸と本格ミステリの融合へとつながってゆくことになる。その意味で、新本格三十年を貫く大きな傾向であることは間違いないし、(本稿の後半で触れるように)この傾向を軸として、本格ミステリのその後の生存戦略は試行錯誤を繰り返すことになる。
「クローズド・サークル」「日常の謎」
新本格初期に生まれた幾つかの傾向のうち、青春ミステリの流れと並んで目立つのは「吹雪の山荘」や「嵐の孤島」といった、外界から隔絶されたクローズド・サークルを扱った作品の多さだ。有栖川有栖の江神二郎シリーズの長篇はすべてがクローズド・サークルを舞台にしているし、綾辻行人の「館」シリーズも、全部ではないがクローズド・サークル率が高い。これを単純に古典回帰と捉えるべきではないだろう。もちろん、クローズド・サークルを扱ったミステリはエラリー・クイーンの『シャム双子の謎』(一九三三年)やアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』(一九三九年)などの海外古典にまで遡れるけれども、新本格の場合、クローズド・サークルは純粋な謎解きゲームを成立させるための実験室とも言うべき環境として多用された。こうしたクローズド・サークルの流行は、一九九二年から「少年マガジン」で連載がスタートした天樹征丸・金成陽三郎原作、さとうふみや画のミステリコミック『金田一少年の事件簿』などで踏襲されたことにより、更に広い層に普及することになる。
また、新本格は古典的な本格ミステリの復興運動として捉えられがちであり、それも一面の真実ではあったけれども、古典においてはさほど多くはなかったホラーや幻想小説との融合も大きな傾向だった。ホラーと本格ミステリの合体は、ジョン・ディクスン・カーやヘレン・マクロイ、あるいは高木彬光などに先例があったけれども、新本格においては特に、山口雅也が『生ける屍の死』で「死者が蘇るようになったアメリカ」という特殊設定を用いた本格大作で評判を呼び、続いて綾辻行人が『霧越邸殺人事件』(一九九○年)で幻想性と不可分な論理で本格長篇を構築してみせた影響が大きかった。特殊設定本格は西澤保彦や北山猛邦らによって継承され、ホラー本格は飛鳥部勝則や三津田信三らの作品で更に可能性が拡大するに至る。
一方で北村薫は、殺人のような凶悪犯罪を描かずとも、日常の中の些細な違和感を論理的に解明する面白さを発見し、そこから「日常の謎」という流派が生まれた(こうした試みは戸板康二らに前例はあるものの、流派として確立したのは北村以降である)。彼に続く作家として、加納朋子のほか『ぼくのミステリな日常』(一九九一年)の若竹七海、『日曜の夜は出たくない』(一九九四年)の倉知淳、『時計を忘れて森へいこう』(一九九八年)の光原百合らがおり(中には「日常の謎」から離れた作家もいるが)、今世紀デビュー組の青井夏海(自費出版デビューは一九九四年)、坂木司、大崎梢、七河迦南らへと受け継がれてゆく。
山口・綾辻らの特殊設定ミステリと北村・加納らの「日常の謎」は一見交わることのない流れのようでいて、実際には不思議な親和性を見せていた。『バルーン・タウンの殺人』(一九九四年)の松尾由美のように、発表する作品の殆どが広義の特殊設定ミステリでありつつ、作風的に「日常の謎」や安楽椅子探偵ものとも親和度が高いという特異な作家も存在する。今世紀の作品で言えば、沢村浩輔『インディアン・サマー騒動記』(二○一一年。文庫版は『夜の床屋』と改題)などもこの流れに属している。
新本格ムーヴメントに先立ち、一九七○年代末から八○年代初頭にかけて、人工的な探偵小説の復権を志向する作風を掲げて登場した作家たちがいた。泡坂妻夫・連城三紀彦・栗本薫・竹本健治ら雑誌《幻影城》出身の作家たち、そして『バイバイ、エンジェル』(一九七九年)の笠井潔や『占星術殺人事件』(一九八一年)の島田荘司がこれに該当する。新本格の新人たちの活躍は、彼ら先輩作家たちにも刺激を与えた。島田荘司は一九九○年代前半に『暗闇坂の人喰いの木』(一九九○年)など、名探偵・御手洗潔が活躍するバロック的な大作を次々と発表し、笠井潔はしばらく中断していた矢吹駆シリーズを『哲学者の密室』(一九九二年)で復活させる。竹本健治は『ウロボロスの偽書』(一九九一年)など、実在の作家や評論家らが入り乱れるメタミステリ「ウロボロス」シリーズを開始した。四六判単行本として刊行されたそれらの作品は分量的な長大さもひとつの特徴だったが、この時期はノベルスも(というか、特に講談社ノベルスに)分厚いものが多く、それが頂点に達したのが全四巻から成る二階堂黎人の伝奇的本格ミステリ『人狼城の恐怖』(一九九六~九八年)である。
新人の出現は一九九二年あたりに一旦落ち着きを見せるものの、一九九四年からは『姑獲鳥うぶめ の夏』(一九九四年)の京極夏彦、『おなじ墓のムジナ 枕倉北商店街殺人事件』(一九九四年)の霞流一、『コミケ殺人事件』(一九九四年)の小森健太朗、『解体諸因』(一九九五年)の西澤保彦、『僕を殺した女』(一九九五年)の北川歩実、『すべてがFになる』(一九九六年)の森博嗣らが登場し、これを新本格の第二ステージと呼ぶ場合もある。特に、「理系ミステリ」のキャッチコピーをつけられた森と、驚異的な博識を駆使しながら人間の現実認識そのものの危うさを問う大作を立て続けに発表した京極のセールス力と影響力は絶大だった。デビュー時は警察小説の書き手というイメージが強かった柴田よしきも、『少女達がいた街』(一九九七年)などの本格で注目を集める。
また、京極のデビュー作『姑獲鳥の夏』が持ち込み原稿だったことから、講談社は従来の新人賞のように作家を選考委員にするのではなく、編集部の合議で受賞作を決めるスタイルのメフィスト賞をスタートさせる(第一回受賞作は『すべてがFになる』)。第二回受賞作の清涼院流水『コズミック』(一九九六年)など、賛否両論を招く問題作が多かったのがこの賞の特色だが、二○世紀デビュー組に限っても、後に恋愛ミステリ『イニシエーション・ラブ』(二○○四年)でブレイクする乾くるみ、『記憶の果て』(一九九八年)に始まる安藤直樹シリーズで個性的な作風を示した浦賀和宏、歴史の秘密を暴く「QED」シリーズ(一九九八年~)の高田崇史、「《あかずの扉》研究会」シリーズ(一九九九~二○○一年)の霧舎巧、『ハサミ男』(一九九九年)などの才気煥発な作品で高い評価を得た殊能将之、『真っ暗な夜明け』(二○○○年)などで論理的な謎解きを重視した氷川透、ゲームや映像の方面にも進出している黒田研二ら、後に活躍する作家を大勢登場させた功績は大きい。
鮎川哲也賞の一九九○年代半ば以降の受賞者には、時代ミステリから安楽椅子探偵ものまで幅広い作品を執筆した北森鴻、実際の災害や有名犯罪から得たアイディアに奇想を絡める作風の谺健二、芸術に関する深い造詣やホラー趣味を作品に活かした飛鳥部勝則らがいる。
勢いのあるジャンルには、自然にSFやホラーといった隣接ジャンルからも人が集まってくる。SF界の実力派であると同時に、新本格スタートとほぼ重なる時期から『人喰いの時代』(一九八八年)のような人工的な本格ミステリも発表していた山田正紀は、『神曲法廷』(一九九八年)などの幻想的な本格ミステリ大作を九○年代末から立て続けに発表するようになった。さまざまなジャンルを横断して活躍している恩田陸は、後期クリスティー風の「回想の殺人」テーマに多重推理を組み合わせた『木曜組曲』(一九九九年)のような本格ミステリから、『ユージニア』(二○○五年)のようなアンチ・ミステリ的な作品まで幅広く手掛けている。最も本格ミステリへの越境組が目立ったのはホラーの分野で、『竹馬男の犯罪』(一九九三年)の井上雅彦、『東とう 亰けい 異聞』(一九九四年)の小野不由美、『密室・殺人』(一九九八年)の小林泰三、『赤い額縁』(一九九八年)の倉阪鬼一郎、『鬼の探偵小説』(二○○一年。後に『オニマル 異界犯罪捜査班 鬼と呼ばれた男』『オニマル 異界犯罪捜査班 結界の密室』に分散して再録)の田中啓文らの活躍が目立った。先に触れたような山口雅也や綾辻行人の作例が高く評価され、多くの後続作を生んだことからしても、ホラーからの越境組が多かったことには必然的な理由があったと思われる。
一九九○年代後半では、既に名を挙げた作家以外でいうと『3000年の密室』(一九九八年)でデビューした柄刀一が最も注目すべき作家だろう。過去から未来に亘る多彩なモチーフを扱い、時に特殊設定ミステリの意欲作も手掛けるその作風は、ある意味で最も新本格らしいと言えるかも知れない。また、同じ一九九八年に『邪馬台国はどこですか?』でデビューした鯨統一郎は、高田崇史とともに歴史本格ミステリのブームを牽引し、今世紀における岡田秀文、高井忍らの活躍の下地を作ったとも言える。
米澤穂信とフォロワーたち
さて、ここまで紹介してきた流れのどのあたりまでを新本格と呼ぶかは、論者によって意見が分かれる問題だが、どこで区切りをつけるかはおくとして、一九九○年代末から今世紀になると新本格に影響を受けた作家が多く登場しているため、ポスト新本格とでも呼ぶべきかも知れない。ひとつの契機として注目したいのは二○○一年という年だ。この年にデビューした主な作家を挙げてみると、編集者からホラー作家に転身した三津田信三、奇想炸裂の怪作から端正な本格まで手掛ける鳥飼否宇、学園ミステリ『氷菓』(二○○一年)でデビューした米澤穂信、落語ミステリから倒叙ミステリまで幅広い作風を誇る大倉崇裕、『建築屍し 材ざい 』(二○○一年)で第十一回鮎川哲也賞を受賞した門前典之、歴史ミステリからスタートして後にトリッキーなスパイもの「ジョーカー・ゲーム」シリーズ(二○○八年~)でブレイクした柳広司らがいる。これほど多くの実力ある新人がデビューした年というのも珍しい。そして翌年には、光文社の新人発掘企画「KAPPA-ONE」から、『アイルランドの薔薇』(二○○二年)の石持浅海、『密室の鍵貸します』(二○○二年)の東川篤哉らが登場した。
今世紀の本格ミステリ界は、新本格の第一ステージ・第二ステージの作家と、彼らからバトンを受け取ったポスト新本格勢の両輪によって牽引された。例えば、当初はマニア好みの作家と見なされていた東川篤哉は、お嬢様刑事と毒舌執事のコミカルな掛け合いで進展する安楽椅子探偵ものの連作『謎解きはディナーのあとで』(二○一○年)で一躍ベストセラー作家となった。滝田務雄の「田舎の刑事」シリーズ(二○○七年~)や奥泉光の『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』(二○一一年)のようなユーモア・ミステリが改めて注目を集め、ドラマ化されるなどの現象には、東川作品の大ヒットの影響があった筈だ。米澤穂信は目ざましい活躍を続けてミステリ界の第一人者となり、特に学園ミステリでは多くのフォロワーを生んだ。三津田信三は、本格とホラーを融合させた『厭魅まじもの の如き憑くもの』(二○○六年)に始まる刀城言耶シリーズでファンを熱狂させ続けている。アニメ映画『名探偵コナン から紅くれない の恋歌ラブレター 』(二○一七年)の脚本を手掛けた大倉崇裕のように、小説にとどまらず他のメディアにまで活躍の場を広げた作家もいる。
彼らよりデビューはやや後だが、京極夏彦の影響を感じさせる『背の眼』(二○○五年)で登場、やがて『向日葵の咲かない夏』(二○○五年)などで独自の作風を切り拓いていった道尾秀介も、二○○○年代前半登場組を代表する作家である。二○○四年にデビューした辻村深月は、ファンタジー的な作風と現代のリアルを追求する作風を両立させており、『鍵のない夢を見る』(二○一二年)でメフィスト賞出身作家としては初めて直木賞を受賞した。同じく二○○四年に本格的にデビューした大山誠一郎は、『密室蒐集家』(二○一二年)などで論理性と意外性を両立させた作風を披露している。第十三回鮎川哲也賞受賞作『千年の黙しじま 異本源氏物語』(二○○三年)など歴史ミステリを得意とする森谷明子も、この時期登場の実力派だ。なお二○○一年には、前年に設立された本格ミステリ作家クラブが主催する本格ミステリ大賞もスタートし、会員投票の結果、小説部門の第一回受賞作には倉知淳『壺中の天国』(二○○○年)が選出された。
メフィスト賞からは、清涼院流水の流れを継ぐと見られた『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』(二○○一年)の佐藤友哉や『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯ざれ 言ごと 遣い』(二○○二年)の西尾維新が登場して人気作家となり、批評家からは「脱格系」と呼ばれた(講談社の雑誌《ファウスト》が彼らの拠点となったため「ファウスト系」とも呼ばれる)。後に破格の奇書『ディスコ探偵水曜日』(二○○八年)を発表する舞城王太郎もこの括りに入る。『「クロック城」殺人事件』(二○○二年)の北山猛邦も当初「脱格系」と見なされることもあったけれども、幻想的な異世界を舞台にしつつ、巧緻な物理的トリックを組み立てるその作風は、むしろ正統的な本格ミステリの流れに近いものだった。
実は、佐藤や西尾の初期作品からも窺えるように、青春小説として新本格がスタートした歴史は、この「脱格系」あるいは「ファウスト系」で再び繰り返されることになる。しかし、そこで展開されるロジックは従来の本格の読者からは違和感をもって迎えられる場合もあった。その意味では二○○○年代前半とは、本格ミステリのロジックと青春小説の結合というかつての戦略が破綻し、両者の乖かい 離り が可視化された時期であると言えなくもない。
二○○○年代後半に入ってからのトピックとして、直木賞と第六回本格ミステリ大賞を受賞した東野圭吾『容疑者Xの献身』(二○○五年)の評価をめぐる、所謂いわゆる 「容疑者X論争」が存在する。ここでは論点にまでは言及しないが、多様な方向性の作家の寄り合い所帯だった本格ミステリ界が実は一枚岩などではなく、数多くの矛盾や対立点を孕んでいたことを可視化した点で意義があったと言うべきだろう。これを機に、本格はジャンルとしての結束感ではなく、ゆるやかなつながりを重視してゆく。
同じ二○○○年代後半からは、米澤穂信フォロワーとも言うべき作風の作家が多く登場した。「市立高校」シリーズ(二○○七年~)の似鳥鶏や「マツリカ」シリーズ(二○一二年~)の相沢沙呼らは、東京創元社デビュー組らしい「日常の謎」を、ライトノベル的な感性で学園ミステリと融合させることに成功した。創元デビュー組ではないが、「ハルチカ」シリーズ(二○○八年~)の初野晴も同じ系列に属する作家だ。ベストセラーとなった三上延の「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ(二○一一~二○一七年)をはじめ、岡崎琢磨の「珈琲店タレーランの事件簿」シリーズ(二○一二年~)など、さまざまな職場を背景にした「お仕事小説」と「日常の謎」の組み合わせも流行した。これに対し、『リロ・グラ・シスタ the little glass sister』(二○○七年)の詠坂雄二、『少女たちの羅針盤』(二○○九年)の水生大海、『消失グラデーション』(二○一一年)の長沢樹らは、いずれも非「日常の謎」路線の青春ミステリで登場した作家で、その後の作風を見ると必ずしもデビュー作の路線にこだわっていない点も共通している。この時期の学園ミステリの多くが高校を舞台にしているのに対し、『シンフォニック・ロスト』(二○一一年)の千澤のり子は小学校や中学校を舞台にしている点が異色だろう。「日常の謎」であるかどうかはともかく、これらの作品は、本格のロジックと青春小説が一度は乖離した二○○○年代前半の傾向に対する揺り戻しとも言える。青春小説と結びつくという新本格の生存戦略は、米澤穂信とその後継者たちの出現によって再び有効性を高めてゆく。
「日常の謎」が学園ミステリやお仕事小説と合体する流れの一方、非日常の極みとも言うべき戦争から「日常の謎」を見出そうという傾向もある。『いくさの底』(二○一七年)の古処誠二のように、戦時中を舞台にした本格ミステリを手掛ける作家も現れる中、深緑野分『戦場のコックたち』(二○一五年)、山本巧次『軍艦探偵』(二○一八年)の両作は、戦争を背景としながら最初のうちは死を伴わない「非日常の中の日常の謎」が、やがて人間の死を伴う悲劇へと発展するという共通した構想を持つ。「NCIS特別捜査官」シリーズ(二○一三年~)で米軍基地やオスプレイでの密室殺人を描いている月原渉、『深山の桜』(二○一五年)などで自衛隊内での事件を扱っている神家正成らも、平和と戦争という日常と非日常の境に意識的な書き手である。戦争や戦場を背景にしているわけではないが、『叫びと祈り』(二○一○年)の梓崎優も好んで海外を舞台に選ぶことで、私たちが日常と思い込んでいるものに罅ひび を走らせてみせる書き手だ。
新本格以降に発表された作品の膨大な蓄積を前にして、本格のお約束クリシェ に対するパロディ的な自己言及に活路を見出す作家もいる。汀こるもののデビュー作『パラダイス・クローズド THANATOS』(二○○八年)は新本格におけるクローズド・サークルのインフレ化という状況を踏まえてシニカルにパロディ化し、周木律の「堂」シリーズ(二○一三年~)や早坂吝の『誰も僕を裁けない』(二○一六年)は講談社ノベルス系の新本格で異形の発展を遂げた「館もの」を、その講談社ノベルスというレーベルを舞台にすることで更にセルフ・パロディ的に過剰化させてみせた。門井慶喜『人形の部屋』(二○○七年)は、「日常の謎」の体裁を取りつつ、ペダントリーの面で過剰の域に達した異色作だった。新本格のひとつの特徴であった自己言及性が、これらの作例では極端なまでに顕著となっている。
トリック派、ロジック派、プロット派
二○○○年代後半には、叙述トリックを主軸とした作品がベストセラー化するという現象もあった。これは、新本格の初期からの傾向と無縁ではない。第一ステージのうち綾辻行人ら京都大学推理小説研究会出身組は、学生時代に犯人当て(会員が執筆した犯人当てミステリ小説を朗読し、他の会員がそれに挑戦し批評するというもの)で鍛えられてきたが、高木彬光や鮎川哲也の有名な先例が証明しているように、犯人当ては叙述トリックと極めて相性がいい。というのも、犯人当てとは、すれっからしのマニアを相手に、手掛かりが露骨ならば容易に見破られ、アンフェアならば手厳しく貶けな されるという綱渡りを強いられるため、挑戦者の心理的死角を衝くような作戦を選びがちであり、そのためには叙述トリックが最も効果を上げるからだ。とはいえ、元来はマニアックな趣向であった叙述トリックの肥大化と一般化は、それまでの本格と比較すると特殊な傾向であり、新本格、ポスト新本格の目立った特色であることは間違いない(またこの傾向は、中町信のような作家の再評価にもつながった)。
この叙述トリックの流行と関連して、主に若手作家の作風について論理性の欠如、あるいは従来と異なるタイプの論理の出現を指摘する声もあったが、平成生まれの青崎有吾がエラリー・クイーンばりのロジックを駆使して「平成のクイーン」と呼ばれた例もある。『人間の顔は食べづらい』(二○一四年)でデビュー、綾辻行人から「鬼畜系特殊設定パズラー」の称号を呈された白井智之も、エログロが前面に出た作風ながら、緻密な論理性を重視している若手作家のひとりである。
年齢的なトピックでいえば、島田荘司や笠井潔や竹本健治のような「プレ新本格」世代よりも更に年齢が上の、レジェンド級とも言うべき大家が、新本格・ポスト新本格の若手の活躍に刺激を受け、意欲的な作品を発表したという現象も見逃せない。代表例は、『倒立する塔の殺人』(二○○七年)の皆川博子(一九三○年生まれ)、牧薩次名義の『完全恋愛』(二○○八年)で第九回本格ミステリ大賞を受賞した辻真先(一九三二年生まれ)であり、両者とも二○一八年現在も衰えを見せぬ執筆活動を続けている。
論理性の問題に話を戻すと、二○一○年代前半には、探偵役の推理が必ずしも真実を暴くとは限らず、筋道の通ったロジックで皆を納得させられれば必ずしもそれが真相でなくてもいい……というタイプの本格ミステリも目立つようになった。米澤穂信の『インシテミル』(二○○七年)、円居挽の「ルヴォワール」シリーズ(二○○九~二○一四年)、城平京の本格ミステリ大賞受賞作『虚構推理 鋼人七瀬』(二○一一年。文庫版で『虚構推理』と改題)などが代表例である。また、それと関連して、善悪の境を超えるようなエキセントリックな「名探偵」の活躍も目立った。森川智喜の『キャットフード 名探偵三さん 途ずの 川かわ 理ことわり と注文の多い館の殺人』(二○一○年。文庫版で『キャットフード』と改題)などに登場する悪徳探偵・三途川理がその典型である。ここには、メルカトル鮎や神様探偵といった特異な名探偵たちを生み出した麻耶雄嵩の大きな影響力を見ることが可能だろう。円居や城平らの作例には、設定面で脱格系の影響も感じさせつつ論理構成は旧来の本格ファンを納得させるような、新たな路線の誕生が感じられる。
ロジック派の作例としては、深水黎一郎『ミステリー・アリーナ』(二○一五年)は、多重推理の究極の達成にして、テキストすべてが伏線という趣向を成しとげた力作だった。井上真偽の「その可能性はすでに考えた」シリーズ(二○一五年~)では、奇蹟の実在を証明するため合理的な仮説をロジカルに否定する探偵という倒錯的なアイディアに基づき、外け 連れん 味み の強い華麗な設定のもとで推理合戦が繰り広げられる。「天帝」シリーズ(二○○七年~)で伝奇的設定と多重推理を組み合わせた古野まほろもロジック派の作家と言える。
一九九○年代後半から法月綸太郎や笠井潔の評論で所謂「後期クイーン問題」がミステリ批評の最大トピックとなり、瀬名秀明が『デカルトの密室』(二○○五年)でSF本格のかたちでエラリー・クイーンへのオマージュを捧げるなどの状況に対し、初期クイーン風の正統派ロジックを重視する青崎有吾は、こうした最近の傾向の中ではやや異色だが、これは彼が大学のミステリ研究会出身という、初期新本格作家同様に教養の蓄積が重視される出自であることと無関係ではない筈だ。ただし、青崎の作風では古典的な本格ミステリの面白さと、ライトノベル的なキャラクター造型が両立しており、このあたりに彼の作風が若い世代に受容される理由がありそうだ。同じく大学のミステリ研究会出身で、ロジックと特殊設定本格に淫したと言えるような『名探偵は嘘をつかない』(二○一七年)でデビューした阿津川辰海についても同様のことが言える。
一方で、物理的トリックの案出を得意とする作家の流れもあり、前世紀デビュー組では二階堂黎人や柄刀一がそれにあたるが、今世紀デビュー組では北山猛邦のほか、『十三回忌』(二○○八年)など、一作にトリックを大量に投入することから「やりすぎミステリ」と呼ばれる作風の小島正樹や、『可視み える』(二○一五年)などで怪奇・猟奇趣味と物理的トリックを融合させている吉田恭教らがそれに該当する。貴志祐介の「防犯探偵・榎本」シリーズ(二○○四年~)は、専門知識に裏打ちされた難解極まる密室トリックを毎回編み出しつつ、その解明の道筋にも重点が置かれており、ロジックとトリックの両立が高い水準で達成されている。
ロジック派とトリック派のいずれにも分類しにくい、プロット派とも言うべき作家もいる。『さよならドビュッシー』(二○一○年)の中山七里をはじめ、『ボランティアバスで行こう!』(二○一三年)の友井羊、『女王はかえらない』(二○一五年)の降田天、『あなたのいない記憶』(二○一六年)の辻堂ゆめ、『タイトルはそこにある』(二○一八年)の堀内公太郎など、宝島社の『このミステリーがすごい!』大賞の出身作家にこのタイプが多いという印象を受ける。
なお、吉田恭教や近年の古野まほろ、「警視庁捜査一課十一係」シリーズ(二○一一年~)の麻見和史や「鏑木特捜班」シリーズ(二○一二年~)の河合莞爾など、本格と警察小説をさまざまなかたちで合体させている作家も目立っており、これは『陰の季節』(一九九八年)でデビューした横山秀夫以降の警察小説の多様化を反映している。ノワール小説からスタートしつつ本格ミステリへの志向を強めた『CUT』(二○一三年)の菅原和也ともども、本格の多様化を示す現象と言える。また、医療小説の世界とミステリを結びつけ、なおかつアクの強いキャラクターの魅力でベストセラー作家となったのが海堂尊で、中でも『アリアドネの弾丸』(二○一○年)は本格ミステリとして完成度が高い。この医療本格路線は、天久鷹央シリーズや『崩れる脳を抱きしめて』(二○一七年)の知念実希人が代表作家と言える。警察ミステリと違って、医療ミステリは書き手の殆どが医師またはその経験者という傾向があるが、似た傾向が見られるのが法曹ミステリで、弁護士を退職後に作家デビューした深木章子の『敗者の告白 弁護士睦木怜の事件簿』(二○一四年)、弁護士との兼業作家である織守きょうやの『黒野葉月は鳥籠で眠らない』(二○一五年)などでは、著者の専門的な法律知識が本格ミステリとしての仕掛けに巧みに活かされている。
ライト文芸と本格ミステリの融和
ところで、前世紀の新本格全盛時代を象徴するレーベルが講談社ノベルスだったのに対し、今世紀は「これぞ」というレーベルは現れていないかに見える(本格ミステリに絞った単行本の叢書としては文藝春秋の「本格ミステリ・マスターズ」、原書房の「ミステリー・リーグ」、南雲堂の「本格ミステリー・ワールド・スペシャル」があるが、「本格ミステリ・マスターズ」は二○○六年から新刊を出していない)。これは、ノベルスが衰退し、文庫書き下ろし作品が急増している状況を反映していると思われる。
ここで、ヤングアダルト向け文庫を媒体とする本格ミステリの試みを振り返ってみると、新本格の第一~第二世代の時期には井上ほのか、津原やすみ(現・津原泰水)らの作品が講談社X文庫ティーンズハートから出ていたし、今世紀に入ってからは、富士見ミステリー文庫(途中からは角川文庫)から刊行された桜庭一樹の「GOSICKゴシック 」シリーズ(二○○三年~)が注目された。この富士見ミステリー文庫は、キャラクター重視のミステリのレーベルとして二○○○年にスタートしたものの、刊行される作品は必ずしもミステリ限定ではなかった。そんな中、桜庭一樹や『激アルバイター・美波の事件簿 天使が開けた密室』(二○○一年。創元推理文庫で『天使が開けた密室』と改題)の谷原秋桜子(愛川晶の別名義)、『平ひら 井い 骸がい 惚こつ 此この 中なか ニ有あ リ』(二○○四年。後に『探偵作家は沈黙する 平井骸惚此中ニ有リ』と改題)の田代裕彦らは、本格サイドで健闘していたと言える。
この富士見ミステリー文庫をはじめ、二○○○年代スタートのミステリ系ライトノベルのレーベルは、気軽に読めるのが強みのライトノベルとある程度の熟読が必要となる本格ミステリの相性が良くなかったせいもあってか、方向性が定かならぬ迷走状態のうちにいつの間にか終わりを迎えるケースが多かった。その意味で、本格ミステリのロジックと青春小説が乖離していた二○○○年代前半の傾向は、本格とライトノベルの相性の悪さという方面とも無関係ではなかったと言い得るけれども、角川スニーカー文庫からデビューした米澤穂信の例をはじめ、電撃文庫出身の三雲岳斗がSF本格『M.G.H.楽園の鏡像』(二○○○年)で第一回日本SF新人賞を受賞したり、同じく電撃文庫出身の久住四季が『星読島に星は流れた』(二○一五年)で東京創元社の叢書「ミステリ・フロンティア」入りするなど、ライトノベルから一般向けミステリに進出したケースも散見され、先ほど言及した、似鳥鶏や相沢沙呼といった「日常の謎」と学園ミステリを融合させた米澤穂信フォロワーたちの二○○○年代後半以降の活躍を用意することとなった。また、一般文芸ではSF本格やホラー本格と比較するとファンタジー本格は少ないのだが、ライトノベルに目を向けると比較的多くの作例が見つかる。アニメ化もされた山形石雄「六花の勇者」シリーズ(二○一一年~)が代表的な例である。
ライトノベルの定義自体がかなり漠然としていて、例えば専門の文庫レーベルから出た作品に限定する場合、当初講談社ノベルスから刊行されていた西尾維新をどう捉えるのかなどといった微妙な問題が出てくるのだが、二○一○年代に入ると、ライトノベルと一般文芸の境界線はいっそう曖昧化している。二○○六年からスタートした講談社BOXのラインナップは、西尾維新をはじめライトノベル的作風の書き手を含む一方、島田荘司のような大御所も参加している。ライトノベル的だがそうでない要素も含むという境界的レーベルであることが、円居挽や森川智喜といった、本格的な謎解きと外連味の強いキャラクター描写とを両立させたタイプの作家を世に送るにはちょうど合っていたのかも知れない。「脱格系」「ファウスト系」の代表作家と見なされていた西尾維新はその講談社BOXから、本格ミステリ回帰と言える作風の「忘却探偵」シリーズ(二○一四年~)を発表している。デビュー作『キョウカンカク』(二○一○年。文庫版は『キョウカンカク 美しき夜に』と改題)ではライトノベル的とも言えるキャラ立ちの探偵役を生み出した天祢涼が、次第に作風のリアリティと社会派色を強めていることにも注目したい。こうしたカオス的状況の中、ライトノベルより上の世代(という括りも実は曖昧なのだが)を対象とするライト文芸のレーベルが二○一○年代に増加したことに伴い、ライト文芸的な作風と本格ミステリの融和性は二○○○年代よりは急速に上がったと見るべきだろう。大ヒットした三上延の「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズを刊行したのが、電撃文庫よりやや上の年齢層に向けたメディアワークス文庫だったのが象徴的だ。講談社タイガと新潮文庫nexも広義でライト文芸のレーベルと言えるし、米澤・桜庭・久住といったライトノベル出身作家を執筆陣に含む「ミステリ・フロンティア」は、彼らにより大人向けの作品の発表の場を与えたという意味ではライト文芸と一般文芸の架橋の試みとも言える。小説投稿サイト「エブリスタ」出身作家の小説を書籍化しているスカイハイ文庫から『シャーベット・ゲーム オレンジ色の研究』(二○一六年)の階知彦らが登場するなどの状況も見逃せない。
『屍人荘の殺人』と読者の拡大
思えば、初版は七千部だった『謎解きはディナーのあとで』が国産本格ミステリ史上空前の大ベストセラーへと成長し、二○一○年代初頭にはTVドラマ化などのメディアミックスにもつながった現象も、この時期の本格ミステリとライト文芸の融和と無関係ではなかったのだろう。お嬢様と執事のコミカルなやりとりで進行し、しかも人気イラストレーター・中村佑介の表紙で目を引いたこの作品は、キャラクター小説として読者に受容された面もあった筈なのである。名探偵萌えのような現象はコミックマーケットなどの同人誌文化と結びつくかたちで新本格初期から存在していたし、あれほど蘊蓄満載の京極夏彦作品がベストセラーとなったのもキャラクターの魅力に負うところも大きいと言えるが、ここに来てその傾向が同人誌文化と異なる方向へ発展したとも感じられる。
こうした若い世代を視野に入れたライト文芸との融和戦略の例をもうひとつ挙げておくと、新本格の第一走者だった綾辻行人は、学園ホラー・ミステリ『Another』(二○○九年)で新たな読者層を掴む。この作品は一旦は角川文庫入りしたにもかかわらず改めて角川スニーカー文庫からも刊行され、実写映画化・TVアニメ化・コミック化もされた。
それに付随して見られたのが、新本格の作家自身が「キャラ化」するという現象だ。ミステリ作家が自作の探偵役として登場するというケースは鮎川哲也や笹沢左保などに前例があったし、竹本健治の「ウロボロス」シリーズは既に触れた通り実在の作家や評論家などを登場させていたけれども、実在の文豪が「異能」と呼ばれる超能力でバトルを繰り広げるコミック『文豪ストレイドッグス』の世界観で書かれた朝霧カフカの小説『文豪ストレイドッグス外伝 綾辻行人VS 京極夏彦』(二○一六年)に至っては、とうとう綾辻と京極が自身の作品に因んだ「異能」で対決し、そこに辻村深月が絡む……という奇想天外な物語となっているが、決して際物ではなく、特殊設定本格としても優れた出来である。
文庫中心のレーベルから出たライトノベル、ライト文芸に対し、敢えて祖父江慎デザインの豪華な函入り本でジュヴナイル・ミステリを刊行したのが、二○○六年に死去した宇山日出臣の最後の大仕事とも言うべき「講談社ミステリーランド」(二○○三~一六年)だった。「かつて子どもだったあなたと少年少女のための──」というコンセプトを掲げたこの叢書は、執筆者の平均年齢はやや高めだったし、児童向けとしてはかなりハードな内容の問題作も含んでいたが、むしろそこに参加作家たちの気合いが垣間見えたとも言える。人気作家による児童ミステリの競作というこの企画は、新しい読者層に本格ミステリの命脈をつなげていこうという、宇山の編集者としての先見の明だったのかも知れない。実際、一九九○年代以降、「名探偵夢水清志郎事件ノート」シリーズ(一九九四~二○○九年)や「怪盗クイーン」シリーズ(二○○二年~)などのはやみねかおるの児童ミステリで、本格の面白さに目覚めた若い世代は多かったのだから。類似企画として、二○○七年には理論社が「ミステリーYA!」という、若者向けであると同時に年長の読者層も視野に入れていたと考えられるミステリ叢書を立ち上げたが、二○一○年、版元の経営破綻が原因で企画が中断したのが惜しまれる。芦辺拓と二階堂黎人がアーサー・コナン・ドイルやモーリス・ルブランの名作をリライトした学研の「10 歳までに読みたい名作ミステリー」(二○一六~二○一八年)は、多くの現役ミステリ作家たちにとってミステリに入門するきっかけとなったポプラ社のホームズやルパンのシリーズの役目を果たす、新たな児童向けミステリが必要となっているという問題意識に基づいた企画だろう。
ライトノベル、ライト文芸のキャラクター小説としての魅力を取り込むか、児童文芸の方面で新たな読者層の登場を期待するか──方法論の相違はさておき、出版環境がどんどん厳しさを増す昨今、こうした若年層対象の戦略により、「容疑者X論争」の頃は悲観視されがちだった本格ミステリの命脈を、次の世代へと手渡すことになんとか成功したのではないか。それは、初期新本格が青春小説の魅力をアピールしたことを温故知新とした戦略だったのかも知れない。また、東川篤哉作品のベストセラー化などによって本格ミステリが一部のマニアックな読者の愛好物ではなく、もっとカジュアルに楽しまれるようになった結果、必ずしもミステリマニアではなかった書き手が本格に進出し、本格ファンからもより広い層からも支持を受ける現象も見られるようになった。第二十七回鮎川哲也賞を受賞し、デビュー作にして各種年間ベスト投票を総なめにした上に本格ミステリ大賞まで受賞、二○一八年三月時点で二十三万部を突破した、今村昌弘の『屍し 人じん 荘の殺人』(二○一七年)がその例である。意表を衝く趣向とロジカルな謎解きを合体させ、ネーミングに工夫を凝らして大勢の登場人物を印象づけるなどリーダビリティの高さにも配慮が窺えるこの作品は、本格ファンにとどまらない広い読者層を惹きつける魅力を有していた。
『屍人荘の殺人』が何故これほど大ヒットしたかの分析はなかなか難しいのだが、ひとつ言えるのは、この作品は青春ミステリ、クローズド・サークル、ホラー本格といった、新本格初期から顕著になった傾向をほぼすべて含んでいるということだ(含まれていないのは「日常の謎」くらいである)。もちろん、これらの傾向を兼ね備えていれば話題になるというものではないけれども、既に三十年を超す新本格の歴史の中で積み重ねられてきた幾つもの傾向が、賞味期限切れになるどころか組み合わせ次第では今の読者にも充分アピールすることが『屍人荘の殺人』現象によって証明されたのも事実である。そして、初期新本格の作家とは異なり王道のミステリ読者ではない、いわば「外部」の存在だった今村が、この方法論を使いこなしてみせたことが興味深いのである。新本格初期は若手だった作家もリアルタイムの読者も、三十年も経てばそれなりの年齢になる。従って、新たな読者層を意識し続けなければ本格ミステリは生き残れない。ホラーや青春小説との越境や、キャラクター小説との融和など、さまざまな方法で若年層に本格の魅力をアピールしつつ、本格の「外部」にも読者を拡大する──本格というジャンルが辿りついたこの生存戦略が結実した果てに、現在の『屍人荘の殺人』現象があるとも考えられるのではないか。
もうひとつ、「外部」からの刺激という点で注目したいのがアジア・ミステリの動向である。島田荘司がかつて新本格の若い作家を支援したように、近年は中国語圏のミステリ、所謂「華文ミステリ」の普及に力を注いでいるのはよく知られているが、中でも第一回島田荘司推理小説賞を受賞した寵物先生ミスター・ペッツ 『虚擬街頭漂流記』(台湾、二○○九年)や、陳浩基『13 ・67 』(香港、二○一四年)は評価が高かった。これらは、それぞれ日本のミステリから大きな影響を受けた華文作家の、日本のミステリ読者に対するひとつのアンサーとも言えるだろう。
かなりの遠回りの果てに、新本格以降の約三十年の国産本格ミステリの傾向と歴史、そして主に若い読者を対象とする生存戦略を振り返ってみたが(本格をめぐる批評界の動向や、映像・コミック・ゲームなどとの相互影響関係など、触れられなかったトピックもまだ幾つかある)、こうした流れの延長線上に、若年層からミステリファンを発掘しようとしている講談社タイガ、新潮文庫nexの両レーベルの向かう先があると見るべきだろう。ここまでで名前を挙げなかった作家でいえば、トリッキーな仕掛けが話題を呼んだ竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』(二○一六年)、人間から見捨てられた玩具が暮らす街という特殊設定を使った青柳碧人「玩具都市トイ・シティ 弁護士・ロイヤーズ 」シリーズ(二○一六年~)、ミステリとSFとホラーを合体させた柴田勝家「心霊科学捜査官」シリーズ(二○一七年~)などの優れたミステリが、この両レーベルから登場している。
新本格の第一ステージや第二ステージにデビューした作家も今や斯界の重鎮クラスとなっており、既に名前を挙げた青崎有吾・白井智之・辻堂ゆめ・阿津川辰海といった、平成生まれのミステリ作家が活躍している状況である。その平成も間もなく終わろうとしているのだが、次はどのような新しい才能が登場し、本格をめぐる状況にいかなる変化が生じるのか、目が離せないことは間違いない。
