本書は二〇〇三年に文藝春秋の叢書〈本格ミステリ・マスターズ〉の一冊として出された『神のロジック 人ひ間とのマジック』を改題・再文庫化したものである。
トリッキーな仕掛けと驚愕の真相で、当時の本格ミステリファンの度肝を抜いてから十八年。今回再読して驚いた。十八年前の作品なのに、まさに二〇二一年の今に向けて書いたかと思われるような仕掛けとテーマが込められていたのだ。
舞台は、明確には説明されないが、どうやらアメリカ南部と思われる人里離れた荒野。そこに建つ謎の〈学校フアシリテイ〉に暮らすマモルこと御子神衛みこがみまもるの視点で物語は進む。
全寮制のその〈学校フアシリテイ〉には、マモルの他に、〝詩人ポエト〟、〝ちゅうりつニユートラル〟、〝けらいオベイ〟、〝妃殿下ユアハイネス〟、そしてマモルと仲のいいステラの、合わせて六人の生徒がいる。指導するのは 〝校長先生プリンシパル〟と〝寮長RA〟。食堂を切り盛りするのはミズ・コットンだ。
家族から引き離され、さまざまな厳しい制約が課されたその〈学校フアシリテイ〉で、生徒たちは授業レツスンと実習ワークシヨツプに励む。授業レツスンは普通の勉強だが、実習ワークシヨツプはちょっと風変わりだ。ディスカッションでさまざまなシチュエーションの犯人当てゲームに挑戦するのである。
これだけでも充分謎めいた状況なのに、もうひとつ不思議なことがある。ここに集められた生徒たちは誰一人、自分がここへやってきた頃の記憶がないというのだ。かつては親と暮らしていたのに、気づけばここに来ていた──ここに連れてきた大人がいたような気がするが誰なのかわからない──え、何それ。
さらにこの〈学校フアシリテイ〉には、新入生が入る度に〝邪悪なモノ〟が目を覚ますという奇妙な噂があった。そして実際に新入生が〈学校フアシリテイ〉にやって来た日、マモルはとても気味の悪い体験をする。のみならず、生徒たちが次々と殺されて……。
いやはや、全方位にミステリアスではないか。
気になるところは多々あるが、というか気になるところしかないが、中でもこの現実離れした〈学校フアシリテイ〉において妙にそこだけゲーム的な実習ワークシヨツプに注目願いたい。父親のビデオコレクションのラベルが剥はがされ、床にぶちまけられていた理由は何で、家族の誰が犯人か──などという設問に生徒たちは頭を絞り、話し合い、それぞれ論理的と思われる解釈を出し合い、摺り合わせ、結論を出す。
これは西澤保彦が〈タックシリーズ〉でよく使うディスカッション推理だ。著者のお家芸と言っていいだろう。与えられた情報のみで蓋然性がいぜんせいの高い解釈を捻ひねり出すこのシステムは、知的ゲームとしてのミステリの面白さに満ちている。が、ここでのポイントはその先にある。この実習で鍛えられた彼らは、別の謎についてもそれぞれが独自の解釈を開陳する。別の謎──この〈学校フアシリテイ〉は何なのか、という最も大きい、最も基本的な謎だ。
何の意図でこんな実習をさせられているのか。もしかしたらこの〈学校フアシリテイ〉は××で、自分たちは××のために集められたのではないか。そんな〈推理〉を、複数の生徒が披露する。
解釈のバリエーションを味わう、という点ではとても楽しい。論理的ではあるが子どもらしい飛躍した発想には思わず頬ほおが緩む。しかしそれは同時に、自分たちがなぜここにいるのかわからないという根源的な恐怖に、何か説明をつけようとする悲しい足あ掻がきにも見える。こんな特殊な場所に集められた自分は、何か特別な選ばれた人間なのかもしれない。そうだったらいいな。そんな〈推理〉に縋すがることで、彼らは不安な現実から目を逸らし、自分たちだけで作り上げた幸せなファンタジー、共同幻想の中にいられるのだ。
たとえそれが外から見たら、とても不確かで不穏なものであったとしても。
幸せなファンタジー。共同幻想。これが本書を読み解く鍵になる。
マモルが両親と暮らしていた頃、母親と交わした会話に注目願いたい。クリスチャンである母親が、神さまなんて非科学的というマモルに向かって、科学的な事実と信じることは別物だという話をする。その例として、マモルはポストが赤だと思っているが、マモル以外の全員が青だと言ったら、マモルの方が間違っていることになる──と説明するのだ。
「わたしたち人間はね、自分が信じるものしか事実とは認めないの。たとえそれが嘘でも、ね」
マモルは納得できない。宗教なんてものがあるせいで戦争が起きているじゃないか、自分たちの神と信じる神が違うというだけで殺し合っているじゃないか、と。
著者が本書を執筆していた頃、当時のブッシュ米大統領はイラクを「悪の枢軸」と呼び、侵攻を開始した。二〇〇一年の9・11同時多発テロを受けてのこの第二次湾岸戦争は、キリスト教国とイスラム教国の宗教戦争でもあった。そんな時代だったからこそ、著者は〈学校フアシリテイ〉の生徒たちに「自分の信じるものだけが正しい」という「共同幻想」の危うさを仮託したのだろう。
だが、それが二〇二一年の今、圧倒的なリアリティをもって、ともすれば湾岸戦争以上に身につまされる問題として、読者の前に立ち塞がる。
ここ数年で加速した分断。格差。激しい差別。ネットの普及で対立が顕在化し、同じ幻想を持つものだけで固まることが容易になった。自分の信じたい情報だけを選択し、そこに耽溺することが可能になった。SNSがそれを助長した。陰謀論が世界を席巻し、自分の考えと違うものは嘘だ悪だ、騙されていると切り捨てるようになった。都合のいいように情報を捻ねじ曲げ、捻じ曲げているという自覚もないままに、信じたいものだけを信じるという共同幻想。その実例がすぐそばにある。
二〇二一年の今に向けて書いたかと思われるようなテーマ、というのはこのことだ。
ミステリの真相を明かすわけにはいかないのでやや曖昧あいまいな表現になるが、本書には共同幻想が崩れる様子が描かれている。それは前述した「この〈学校フアシリテイ〉はこういうところで、僕たちは特別な存在で」というレベルの幻想だけではない。彼ら自身のアイデンティティが揺さぶられるような、大掛かりな崩壊が待っている──とだけ書いておこう。そのくだりの衝撃たるや! それにより、謎めいていた〈学校フアシリテイ〉の真の姿が露あらわになるのだ。なぜ生徒たちには記憶がないのか。新入生がやってくるときに目覚める〝邪悪なモノ〟とは何なのか。連続殺人の犯人とその動機は。すべてがつながり、思いもかけなかった絵が浮かび上がる様は圧巻である。
真相がわかってからもう一度最初に戻って読み返すと、序盤から実に細やかに伏線が張られていたことに驚くだろう。はじめは何の気なしに流したところが、まったく別の意味を持っていたことに気づいて呆然とするに違いない。
本書に仕掛けられたトリックは実に大掛かりなもので、大掛かりであるがゆえにそこのみに注目が集まりがちなのだが、本書の核は共同幻想そのもののあやうさと、それが崩れることが何をもたらすかの描写にある。共同幻想がはびこり、自分にとって居心地のいいファンタジーに固執する様を目の当たりにすることが増えた現代だからこそ、その描写に戦慄する。大掛かりなトリックはそのテーマを支えるためのものだ。決して読者を騙して驚かせるためだけのトリックではないのである。
幻想が崩れたあとのマモルと、彼の悲痛な叫びは、いつまでも読者の胸に残るはずだ。
私は冒頭で「二〇二一年の今に向けて書いたかと思われるような仕掛けとテーマ」と述べた。テーマは前述した通りだが、仕掛けの方にも触れておこう。
本書は先に述べたディスカッション推理の他に、閉鎖状況(クローズドサークル)での連続殺人というミステリファン大好物の要素も用意されている。そしてもうひとつ──これまたネタバレにならないよう表現するのが難しいのだが、本書は一種の「特殊設定ミステリ」である、というところまでは言ってもいいだろう。
特殊設定ミステリとは、SFやホラーなどの設定を使って、現実とは異なる特殊なルールのある世界が舞台となり、そのルールに則のつとった形で事件や推理が展開する作品のこと。二〇一〇年代後半から現在に至るまで、ミステリ界では特殊設定ものが大盛況だ。佳作が続々と発表され、二〇二〇年に至ってはミステリランキングの上位にも多く食い込んだほどである。
だが、そもそも西澤保彦はSFミステリで登場した作家である。これまでもタイムリープものや人格転移ものなど、さまざまな特殊設定ミステリで人気を博してきた、これまたお家芸なのだ。
だが本書の特殊設定は、それらSFミステリとは一線を画する。こういう形での特殊設定の使い方があるということ、特殊設定がテーマに密接につながっていること、そしてそれを十八年前にやっていたということに、存分に驚いていただきたい。
ジャンルの面でもテーマの面でも、二〇二一年に再度お届けするにふさわしい作品である。初めての方はもちろん、単行本や文春文庫で読まれた方も、ぜひもう一度手にとってほしい。そのときとは違った感覚で、物語を味わえるはずだ。

