自作解説「『抹殺ゴスゴッズ』にちなんでお話しいたします」——飛鳥部勝則
「最近ですが、作家や漫画家、映像作家や画家などのクリエイターは、つまるところ、幼年期や少年期に面白かったもの、楽しかったもの、感動したものを再現しようとしているだけ、究極それだけなのではないかと思うことがしばしばあります。
意識している、していないに拘わらず、感性豊かだった時代に心に刻まれたものは容易には抜けない、ということなのかもしれませんが、私などかなり恣意的に旧来のものを引っ張ってくる癖があり、新作『抹殺ゴスゴッズ』の場合、昔のミステリの《怪人》を復活させることが、一つの目的としてありました。乱歩の人間豹や、海野の蠅男が私は大好きでしたが、しかし旧来の怪人を令和に連れてきて暴れさせるだけではつまらない、あまりに芸がない、いや愚直にそれをやり通せる力量ある作家の存在は否定しませんけれども、私には向いていないし、では現代の怪人がどういう現れ方をするのかと考えた時、思いついたのが、同じかいじんという読みで、《怪神》というカテゴリーでした。それがどのようなものであるのかは、本篇をお読みいただければわかります。
ちなみに私が名付けた、わりと常識的な《怪神》という名称の代わりに、早川書房担当編集者氏が考えたのは、《神人》という、よりラディカルな名称でした。〝かみじん〟と読むのか〝しんじん〟と読むのかわからず、「なんかしんじんもかみじんも響きがいやだなぁ」と思ったので採用には至りませんでしたが、実は《怪神》より《神人》の方が新カテゴリーにふさわしい名称であった、とは思いますし、この編集者氏など今後、優秀な作家と組めば、どれほどの革新的な作品を作り得るのか想像もつきません。
往年の怪人については語ろうと思えばいくらでも語れます。
しかし、ここでは措き、怪人や怪神の対極に位置する探偵役についてふれておきたいと思います。本作の重要な謎解き役の一人に、妹尾悠二という男がいるのですが、彼は、かつての私がこしらえた唯一の名探偵でした。かいじんに対抗できるのは、めいたんていしかいないわけで、初登場は今を遡ること二〇〇四年、『レオナルドの沈黙』という長篇においてであり、従って『抹殺ゴスゴッズ』は、ゴシック復興四部作の最終巻であると同時に、二十一年後に出現した妹尾悠二シリーズ第二弾でもあるのです。
ちなみにコンテンポラリー・アーティストの妹尾悠二は二十一年を隔てても、作品内ではそれほど違った人間には描かれていません。名探偵は歳をとらない、というのではなく、三十代で完成された人間は五十代になっても変わって見えない、という感覚に近いのだと推測されます。『抹殺ゴスゴッズ』をお読みになって面白いと感じられたら、『レオナルドの沈黙』に手を伸ばしてみて下さい。作風の違いに驚かれるはずです。書泉・芳林堂書店さんなら四六判仮フランス装(東京創元社)の在庫がまだあります(二〇二五年八月時点)。
『レオナルドの沈黙』は、二〇〇二年に他界された鮎川哲也師に、私なりに捧げた供物のような作品であり、本格派としての飛鳥部の核になる「ただの」謎解きものであって、謎解き以外には何もない、というシンプルな構造になっています。いわば原点回帰の試みだったわけですが、そうして書かれた長篇が、少年時代に最愛のクイーンではなく、長らく偏愛のカーでもなく、アリバイ崩しのクロフツでは更になく、結果的にクリスティーになっているのはどうしたことなのか、飛鳥部の本来の資質がクリスティーに近いということか、「クリスチー(東京創元社の表記は長らくクリスチィだった)は私にとっても師匠」と語る坂口安吾の影響か、いや作品の隔たりはあれど人間的に一番近いのはやはり乱歩であってクリスティーとは対極、というのは私の思い込みかもしれませんが、ともかく何故クリスティーぽい謎解きになったのかは自分でもわからない、けれども、この長篇は第二作、第三作があってこそ輝きが増してくるはずの、個人的に非常に重要な作品になっていることだけは確かです。ちなみに近く上梓される予定の『封鎖館の魔』(星海社)にも、妹尾悠二は登場します。
『レオナルドの沈黙』にはなくて、『鏡陥穽』や『黒と愛』といったゴシック復興四部作にはある、過剰な、おかしな、いかれた部分こそが私の持ち味なのだろうし、固定読者の好むところでもあろうと推察されはするのですが〝他に何もない謎解きものへの憧れ〟というのを私は一貫して持ち続けていますし、これからも持ち続けると思います。その意味では飛鳥部勝則は本格派で、『抹殺ゴスゴッズ』も本格ものですけれども、変格要素もたっぷり含んでいますので、変格ものといわれても一向に構いません。
本格だ変格だといったジャンル分けは不毛なものであり、かつて本格流行りの時代には、飛鳥部は本格陣営から熱烈にウェルカムな感じではなかったし、変格が流行りそうになったら、今度は「飛鳥部は本格ですよね」と、のけ者にされかねません。ついでに因習村とか、ホラーとミステリのジャンル混淆とかが大流行りですが、今の読者は、私より後に出た作家を先に読んでいるので、こちらが後追いしているように思いこんでいる、という事も多々あるようです。いや、違いますんで。
ゴシックについても触れておきましょう。私はバロック美術ほどにはゴシック美術に心酔したことはありませんし、ゴシック文学といいましても、そもそも基本文献ともいうべきアン・ラドクリフの諸作の完訳が近年なされたとあっては、精通しているともいい難く、ましてやファッションを中心とするゴス好き、ゴス趣味の皆様と親しくさせていただいているわけでもありません。では何故ゴシック復興四部作などと総称したのかというと、これはどこかに書きましたが、ゴシックを世間様に復興させようなどという大それた野望は微塵もなく(というより私が煽るまでもなく前世紀からゴスの大流行は続いており、ある意味飽きました)、あれは私の内部でのゴシック復興だった、ということに尽きます。
そもそも海外のミステリ作家が文学を志すとゴシック小説に接近する。大物でいうとセイヤーズやP・D・ジェイムズがそうですが、それは何故なのか、何故ジャンル小説がゴシック文学に近づいていくのか、と考え始めたのが、ゴシックに真の興味を持ち始めた切っ掛けです。
ここはその何故か、を探る場ではないけれども、一つだけいえることは、ゴシック小説に真に面白いものは少なく、特殊な趣味の方以外は全体を追う必要はないということで、その意味ではモダンホラーに似ています。『堕天使拷問刑』の中にはオススメモダンホラーという章がありますけれども、中には非常にしょっぱい小説も混じっていますのでご用心下さい。ホラーというジャンルは本来、しょうもないものに無自覚になってしまう傾向が強いものではありますが、しょうもなさ、くだらなさも度を超すと、良さに変わってしまうことがあり、私の場合、大馬鹿野郎というのは、時々誉め言葉になります。
ちなみに本邦のミステリ作家が文学を目指すと、ゴシックには向かわず、かなりの割合で社会派に接近する。これは何故か、と彼我の文学観の違いを考えてみますのも中々面白いのではないかと思います。
『抹殺ゴスゴッズ』の中で、私流のゴス論を平易かつ体系的に展開してみようか、という方向性もありましたが、結局トピックを点綴するだけにとどめました。枚数が増えるのはまずいという判断と、浅学があらわになるのを恐れたためです。なおゴシック小説についてもっと知りたい方には、紀田順一郎編の『ゴシック幻想』が未だに優れた入門書として最適ですし、ジャック・サリヴァンの『幻想文学大事典』が、今でも「読める事典」として必携です。これら二つは古典といってもいいくらい昔の本になりましたが、併読されれば簡単に飛鳥部くらいにはなれるでしょう(?)。
与太話はこれくらいにしておきましょう。もし、もっと飛鳥部のお話が聞きたいと思われるようでしたら、トークショーに足をお運びいただけましたら幸いです。現在予定されているものを末尾に付記しておきます。
最後に、冒頭に戻りまして、もう一つ、最近つれづれに思うことに触れて話を終わりにいたします。
『レオナルドの沈黙』は新たに、十月上旬(九日予定)、幻冬舎文庫から刊行されます。担当編集者氏のアイディアで、解説は芳林堂書店の山本善之氏となりましたが、どのような解説、怪説、悔説、魁説になるのか、皆さんも楽しみにしていただければ幸いです。旧著復刊の大まかな経緯につきましては『ラミア虐殺』文庫版のあとがきに書いておきましたけれども、こうして奇跡のように復活した私は、実在の人物というより夢の人物、この世界に飛鳥部がいることを願った人々の、夢の中の登場人物なのではないか、という気がすることがしばしばあります。
この度は最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。