出張である。

 といっても、それほど遠くへ行くわけではない。秋あき葉は原ばら駅から首都圏新都市鉄道スーパーエクスプレスで四十五分。日帰りの出張だ。

 関東平野の北の端にあるその街は、学術・研究都市としてつとに有名である。公的研究機関、理工系技術系大学、工科専門学校に大手企業の研究部門などが多数ひしめき、国の頭脳の集積回路とでもいうべき一大都市だ。約三百の研究施設に二万人を超える研究従事者を擁している。

 そんな研究機関のひとつに向けて、碁盤の目のごとく格子状の道路をタクシーで走った。

 目的地に到着した浜はま岡おか和かず久ひさはタクシーを降りると、ネクタイを締め直した。銀のアタッシェケースの取っ手を摑つかむ手にも、力が入る。

 残暑の季節が過ぎて秋も深まり、スーツでも特に暑くはない。

 しかし浜岡は緊張感からか、うっすらと額に汗をかいていた。

 研究所の敷地は高い壁で囲まれている。コンクリート製で頑丈そうなその塀は明るい空色に塗られているものの、厳いかつい雰囲気を消しきれてはいなかった。三メートル以上の高さがあって、その上に有刺鉄線が張り巡らされている。〝高圧電線注意!〟と禍まが々まがしい赤い字で書かれた看板が、鉄線の隙間に等間隔で並んでいた。何かの収容所を思わせる厳めしさだった。

 高い壁はどこまでも続いている。中の敷地は広そうだ。自分の社の研究所ではあるけれど、初めて来た。入社して七年目で畑違いの浜岡にとって、縁遠い場所だった。

 巨大な鉄の扉の前は無人だった。守衛さんの詰め所か何かがあるのかと思っていたが、当てが外れた。仕方なく浜岡は、扉の横のインターホンを押した。

『はい、どちら様でしょうか』

 怒っているみたいな口調の男の声が、インターホンから返ってくる。

「本社企画部の浜岡と申します。第六研究室の諸もろ井い室長さんと一時半のアポがあります」

『確認します、お待ちください』

 インターホンのカメラで、じっと見られる気配を感じた。

 浜岡は額の汗を手で拭った。やはり緊張している。何しろ重要任務なのだからな――。

 その重要任務は昨日、課長から直々に特命として下された。

「浜岡、明日出張を頼む、研究所だ」

 昼休みの終わりに、課長のデスク前へ呼び出されてそう告げられた。

「重大な仕事だ、社運がかかっていると云いっても過言ではない」

 撫なでつけた髪が半分白髪の課長は、大おお真ま面じ目めな顔でそう云った。

 そんな社運だなんて大げさな、と思った浜岡の顔色を読んだのだろう、課長は難しい顔つきを崩すことなく続ける。

「研究所の第六研究室が新素材を開発した。それが画期的な代物らしい」

 浜岡の会社は衣料品メーカーである。婦人服からスポーツウェアまで、手広く扱っている。

「その新素材のデータを受け取って、本社のラボまで搬送するのが明日のお前の任務だ」

「わざわざ取りに行くんですか。データだけならメール添付でいいんじゃないでしょうか。それか郵送とかバイク便とか」

 浜岡が軽い気持ちで云うと、課長はことさら声のトーンを落として答える。

「狙われているんだ、その新素材が。どこからか同業他社に情報が漏れた。盗聴やクラッキングの恐れがある。手渡しが一番確実で安心だ」

「そこまで大ごとなんですか」

「ああ、産業スパイが暗躍を始めたとの噂うわささえある。今回の情報は他社さんも喉から手が出るほど欲しがっているだろうからな」

「そこまで凄すごい新素材って何なんでしょう」

 どうやら課長が伊だ達てや酔狂で真面目な顔をしているのではないと察した浜岡が姿勢を正すと、課長はまた声を潜めて、

「俺も詳しいことまでは知らん。現物はサンプルさえまだこっちに来ていないからな。ただ、特殊コーティングで遮熱効果に優れ通気性も撥はっ水すい性せいも高い、夢の新素材だそうだ。スポーツウェアの歴史を変える大発明だという」

「そんなに凄いんですか」

「上層部はこの新素材で勝負に出る気らしい。次のオリンピックの公式ユニフォームの採用も狙っている。この新素材の製品開発に成功すれば、世界中の大手メーカーから業務提携のオファーが殺到すると予測されている。判わかるだろう、オリンピックで各国の代表選手がうちの製品のユニフォームを着て、それが全世界に中継されるんだ、これがどれほどの宣伝効果を持つことか。そうなれば我が社は一気にグローバル規模にのし上がれる」

「確かにそれは大したものですね」

 浜岡が感心して云うと、課長は我が意を得たりとばかりにうなずいて、

「だから同業他社の連中がスパイを使って狙っているという話になっているわけだ。なんでも水面下では、NASAから数億ドルでパテントを買い取りたいとの申し出があるとか」

「NASAって、あのアメリカのですか」

「ああ、といっても子会社の下請けの下請けで宇宙服の下地材を作っている会社らしいんだが」

 凄いんだか凄くないんだか、少し微妙な話ではある。

「とにかくそんなわけで――」

 と、課長は咳せき払ばらいをしてから、

「間違いのないように受け取って来てくれ。つまらんミスは許されんぞ、浜岡」

 そこまで云われて、浜岡は少々不安になってきて、尋ねてみる。

「あの、この出張、私一人で行くんですよね。大丈夫なんでしょうか。帰りに産業スパイに襲われて拉致される、なんてことは――」

「だからこそ一人で行ってもらうんじゃないか」

 と、課長は冷徹な顔つきで、

「大人数でぞろぞろ研究所に出向いて行ったら、受け渡しが明日あることがバレバレだろう。一人でこっそり隠密行動。目立たないように、素早くデータをもらってくる。それが君の役目なんだよ」

 半白髪の頭髪を、櫛くしで撫でつけながら云った。

 そうした経緯で今日、浜岡は研究所の大扉の前に立っているというわけである。

『確認しました。本社企画部の浜岡さんですね。どうぞ』

 インターホンから、怒ったような男の声が聞こえてきた。

 大きな鉄扉ではなく、その脇の通用口みたいな小さなドアが、カチリと小さな音を立てた。電磁ロックが開く音だ。

 てっきり大きな扉が仰々しく開くものだと思っていた浜岡は、少し拍子抜けしながらその通用口のような小さなドアを押し開いた。まあ、お客様というわけではなく、ただのお使いなのだから、扱いもこんなものなのだろう。

 入ったところは小部屋の中だった。

 殺風景なコンクリート造りの簡素な部屋だった。全体的に殺気立ったような、どこか物々しい空気感で満ちている。

 やたらとゴツい体格の警備員が、四人ほど詰めていた。部屋じゅうに張り詰められた威圧感は、この四人が発しているものだった。全員深緑色の制服に身を包んでいるが、服の下には筋肉の固まりが詰まっているのが一目で判るほどだった。

 中の一人がリーダー格らしく、彼が一歩前へ進み出て来た。リーダーだけあって、特別に厚い胸板と恐ろしげな顔つきをしていた。百戦錬磨の傭よう兵へい隊長、といった感じの中年男である。アクション物の映画に、黒い片目のアイパッチをして出演していそうな人物だ。

「失礼かとは思いますが、身体検査をさせていただきます、規則なので」

 と、言葉遣いこそ丁寧だが有無を云わせぬ口調で、傭兵隊長みたいな警備係のリーダーは、浜岡に近づいて来た。

 こちらが返事もしないうちに他の三人も加わって、否いや応おうもなく体じゅうを調べられた。

 ポケットというポケットをひっくり返され、荷物は財布の中身までチェックされ、どういうわけか口の中まで検査された。挙げ句の果てには空港にあるような探知機のゲートをくぐるように求められる。

「随分、厳重なんですね」

 浜岡が辟へき易えきしながら云うと、傭兵隊長は浜岡の社員証をしげしげと眺めながら、

「規則ですので、申し訳ないがご協力を」

 少しも申し訳ないとは思っていなさそうな、威圧的な口調で云った。顔も怖い。

 部下の三人も、にこりともせずに淡々と浜岡の体を調べながら、

「失礼ながら、帰りはもっと厳しくなります」

「機密を多く扱っておりますので、ご理解のほどを」

「外来のかただけでなく、所員も毎日同じようにチェックしています」

 口先だけの丁寧さで、執しつ拗ように検査を続ける。

「これはお帰りになるまでこちらで預からせていただきます」

 と、傭兵隊長は、銀色の小型アタッシェケースを取り上げてしまった。せっかく大切なデータを収納しようと思ってわざわざ持ってきたのに。

 さらに、浜岡の私物を並べたトレイから携帯電話を取り上げて、

「これは撮影機能が付いていますね」

 傭兵隊長は、高圧的な口調で尋ねてくる。

「ええ、付いてますね、スマホですから」

 ひるみながら浜岡が答えると、

「これも預かります。所員以外の者の撮影、録画機器等の持ち込みは原則禁じられていますので」

 厳しく申し渡されて、スマホを没収されてしまった。

 そこまでやるか、と内心呆あきれる浜岡に、ようやく通行許可が出た。

〝外来〟とプリントされた小さなバッジをスーツの胸に付けられて、入り口とは反対側のドアへと導かれる。

「では、我々はここまでです」

 傭兵隊長は、厳めしい顔つきのままで云った。人間的な親しみをまったく感じさせない対応だった。浜岡は鼻白みながらもドアを開けて、尋問室みたいな小部屋を出た。

 外は、打って変わって眩まぶしい空間だった。

 青空と、そしてどこまでも広がる芝しば生ふ。

 広々として開放的、明るく清すが々すがしい場所だった。尋問室との対比に、目が眩くらみそうになる。

 浜岡は思わず深呼吸しかけたが、近くに一人でぽつんと立っている男に驚いて目を見張った。

 健康的な青空の明るさにそぐわない、陰気な雰囲気の男だった。年齢は浜岡と同じくらいだろうか。白衣を着ているので研究所の一員だと判る。瘦やせて針金細工みたいな手足に、ひょろんと背ばかり高くて貧相な体つき。そしてぼさぼさの長髪。見るからに、研究しか眼中にありません、といった感じの風貌だ。浜岡と同じ会社の社員のはずなのに、研究所勤務の人間はこんななのか、と浜岡は少々困惑させられた。普段接している企画部の同僚や、営業部や総務の連中とは違いすぎる。

 そんな顔色の悪い瘦せた男が一人ぽつんと立ってこちらを見ているので、どうやら迎えに来てくれたらしいと見当をつけて浜岡は声をかけ、

「どうも、本社企画部の浜岡です」

「第六研の三さん本ぼん松まつです」

 ぼさぼさ頭の瘦せた男は、ぼそぼそと小声で答えた。そして浜岡と目も合わそうとせず、無言で背中を見せると歩きだす。ついて来いということか、と浜岡はその後ろ姿を追う。

 青々とした芝生の上にレンガを敷き詰めた道が延びている。レンガの道はまっすぐではなく、緩く弧を描いて続いていた。どことなく、おとぎの国、といった風情である。イエローブリックロードだ。まあ、案内人が陽気な案か山か子しではなく貧相な白衣の男だから、ムードは台無しだが。

 そのレンガの道を進みながら、浜岡は前を歩く三本松に話しかけてみる。黙って歩くのも気詰まりだったからだ。

「広いですね、ここは」

「ええ、まあ」

 三本松は、ぼそりと小さな声で相あい槌づちを打つ。

「三本松さんはずっと研究所勤務なんですか」

「ええ、まあ」

「第六研究室に所属だそうですけど、研究室はいくつまであるんでしょうか」

「第十研まで、です」

 会話がほとんど続かない。無愛想というか何というか、三本松はひたすら陰気だ。振り向いて浜岡と目を合わせようとすらしない。ただ機械的に返事をして、前だけを見てうっそりと歩いて行く。

 浜岡はコミュニケーションを諦めて、黙ってレンガの道を進むことにした。道は途中の何ヶ所かで分岐している。

 白衣を着た男達と何人かすれ違う。芝生が広がる静かな空間は、なるほど研究所として相応ふさわしいように思う。のどかで落ち着いた、広々とした芝生の空間。健康的だ。前を行く三本松だけがやたらと暗い。

 しばらく歩いて二人は、やがてレンガの道沿いにある一棟の建物の前に到着した。三階建ての近代的な建築物である。瀟しょう洒しゃなデザインの建物で、浜岡は何となく美術館を連想した。入り口の上方の壁に〝第六研究室棟〟と書かれた銀の小さなプレートが掲げられている。

 立ち止まった三本松は、やはり浜岡と目を合わせようとせずに、

「ここで少しお待ちを」

 ぼそぼそと云うと、白衣のポケットからカードを取り出し、それを入り口横の小さな機械のスリットに差し入れてドアを開けた。一人でそこに入って行く三本松。浜岡は入り口の前にぽつねんと取り残されてしまった。

 研究所にずっと勤めているのはあんな変わった奴やつばかりなのかなあ、と思いつつ、浜岡はぼんやりと立ちつくした。

 やることがない。こういう時にはスマホだ、とポケットに手を伸ばしかけたけれど、そういえばスマホは受付であの傭兵隊長みたいな警備員に預けたんだった、と思い出した。現代人としてはスマホを持っていないと、まるでパンツを穿はき忘れたみたいな心許こころもとなさがある。手持ち無沙汰なことこの上なしだ。

 ぼうっと立っていると、突然、後頭部に何かが当たった。

 柔らかい感触だ。

 ぼよよーん、ぼよよーん、と何度か、後頭部にぶつかってくる。

 面めん喰くらって振り向くと、不気味極まりない物体がそこに立っていた。驚き、思わず息を吞のむ。

 それは大きな球体だった。

 風船? と一瞬思ったが、そうではない。

 ひと抱えほどありそうな巨大な球体は、全体的に薄緑色をしている。そしてその全面に、ヒビ割れのような模様が描いてあった。縦横に亀裂がびっしりと細かく走り、気味の悪い様相を呈している。

 前衛芸術か何かで〝砂漠の球体〟とでも名づけられていそうな不可解なシロモノである。前面に大きな吊つり目が二つ付いているのが、余計に気色悪かった。よく見ると球体の上部にも三角形の尖とがった物が二つ、対になってくっついている。はて、この三角は何を表現しているのだろうか。

 球体の下には胴体もあった。これも薄緑色で、全体的にもふもふした体表の、丸っこい体格に作ってある。こちらには模様はない。

 着ぐるみだ。ゆるキャラというやつだろうか。いや、これは決して緩くはない。むしろ気味が悪い。子供が見たら確実に泣く。ヘタをしたらその晩、悪夢に出てくる。

 着ぐるみの胴体と頭の球体部分は接続が悪いらしく、巨大な球の頭はふらふらと、絶えず左右に揺れていた。首が座っていないように見え、それが一層薄気味悪さを際立たせている。

 その〝砂漠の球体〟は、大きな球の頭をしつこく浜岡のおでこにぶつけ続けている。

 ぼよよーん、ぼよよーん、と繰り返し、頭突きを繰り出す。材質が柔らかいので痛くはないが、物凄くうっとうしい。

「あの、ちょっと、何なんですか」

 浜岡は苦情を申し立てた。もちろん〝砂漠の球体〟そのものへではなく、中に入っている人に対してだ。

 それでも尚なおも執拗に、球体はぼよよーん、ぼよよーん、と頭突きをかましてくる。

 いい加減イラっときて、

「だあああっ、もうっ、くどいよっ」

 浜岡は球体を手で押しのける。

 首の座りの悪い球体は一度のけぞったが、すぐに体勢を戻すと、首をゆっくり左右に振った。そして球体の中から「けけけけけけけけ」と、怪鳥みたいな笑い声を発する。着ぐるみの内部から聞こえる声なので、笑い声はくぐもって聞こえた。

「いやあ、怒りやがった、こりゃ愉快愉快」

 球体の中の籠もった声が、楽しそうにそう云った。

「思った通り浜岡だったよ。どっかで見た後ろ姿だと思ったんだ。そういえばこの研究所、お前さんの勤めてる会社と同じ名前だったなって思い出してね、そう思って来てみたらやっぱり浜岡だった。こんなところで出喰わすとは、こりゃまた奇遇なこともあるもんだね、まったく」

 その声に、聞き覚えがあった。

 浜岡が何か云うより前に、着ぐるみは両腕を上に伸ばしてすっぽりと、頭部の球体部分を取り外した。中から現れたのは――小さな顔、見ようによっては高校生くらいに見える童顔、仔こ猫ねこがびっくりしたみたいな大きな丸い目、ふっさり垂れた前髪が眉の下まで届いている。見間違えようがない、その特徴的な顔立ちは――、

「猫ねこ丸まる先輩」

 浜岡が半ば呆れながら云うと、

「そうだよ、僕だよ、驚いたか」

 着ぐるみを着た小柄な人物は、得意げな顔で胸を張った。

 猫丸先輩は浜岡の学生時代の先輩だ。大学を出た後も定職に就かず、三十過ぎのいい年をしてふらふらと遊び暮らしている。自由人というか遊び人というか変人というか、デタラメな言動で学生の頃から目立っていたちょっとした有名人である。小柄な体たい軀くでちょこまかと、その好奇心の赴くまま吞のん気きに生きている野良猫みたいな人物だ。その先輩がどうしてこんなところに? 浜岡が疑問に思って尋ねると、当の変人はきょとんとした顔つきで、

「お前さんこそどうしてここにいるんだよ、いつから研究所に転勤になった」

「いえ、転勤にはなっていません、ただの出張です」

「ありゃまあ、お前さんも出張か、こりゃまた偶然だね、僕も出張なんだ」

 フリーターが出張? と、訝いぶかしく思いながらも、浜岡はさらなる疑問を投げかけて、

「そんなことより、猫丸先輩、何なんですか、その格好は」

「何って、そりゃお前さん、ねこめろんくんじゃないか」

 どうしてそんな当たり前のことを聞くのか、とでも云いたげな顔で猫丸先輩は云う。

「ねこめろんくん?」

「そう、ねこめろんくん。この研究所のマスコットキャラらしい。何だよ、浜岡、お前さんまさか自分の会社のことなのに知らないなんて云うんじゃないだろうな」

 いや、云う。知らない。聞いたことすらない。というか、メロンのつもりだったのか、このデザインは。知っているとかどうとかでなく、そっちの方にかえって驚く。〝砂漠の球体〟の表皮全面を被おおったヒビ割れは、メロンの表面の筋を表現していたのだ。だとしても、その表現の仕方がヘタすぎる。どう見てもやはり、砂漠のヒビ割れにしか見えない。

「メロンはこの県の有名な特産物だぞ、知らなかったのか、お前さんは。まあ、僕も今朝聞くまで知らなかったんだけどね。とにかく、有名なメロンとお子様にも親しみやすいかわいい猫ちゃんを掛け合わせたキャラクターがこのねこめろんくんだ、以後よろしくね」

 よろしくも何もあったものじゃない。ちっとも親しみを持てない。どういう意図でこんな気色の悪いサイケデリックなデザインにしたのか。その神経が判らない。頭上の対になった三角形の部位は動物の耳のつもりらしいが、かわいいという概念からは遠くかけ離れている。子供は絶対に泣くって、これは。ヘタすりゃ疳かんの虫を起こす。

「それはともかく、猫丸先輩が出張って、何なんですか」

 浜岡の問いかけに、猫丸先輩は愛あい嬌きょうたっぷりの大きなまん丸い目をこっちに向けてきて、

「いやあ、話せば長くなるんだけどね、かいつまんで云うとこういうことなんだ。前に僕、スーパーの屋上でヒーローショーのバイトをやってさ、怪人の着ぐるみに入ってショーに出るバイトだったんだけどね、いやそれが真夏のまっ盛りで暑いの何の、もう往生したもんなんだよ。それでその時に知り合ったのがアクション俳優の若手の連中で一緒に熱波の太陽と戦ってすっかり一体感を感じて意気投合したんだけどさ、彼らの紹介で僕は着ぐるみ役者の事務所に登録することにしたんだ。いや、別に専業の着ぐるみ役者になるつもりなんてないんだけどね、たまにそういうバイトをするのも面白かろうと事務所に入ったわけなんだ。そんなこんなで、今日はここの研究所での仕事を斡あっ旋せんされたって寸法さね。なんでもネットとやらで流すピーアール動画だとかでね、そのVTR撮影をやってたんだよ。こういうのは大抵会社の宣伝部の人が着ぐるみの中に入るんだけど、お前さんの会社、景気がいいのかね、どうせならプロに頼もうってことになったらしくて、それで僕にお鉢が回ってきたって按あん配ばいなんだ。いやあ、参ったね、僕、プロだってさ、いや、どうにもこうにも照れるじゃないか、この野郎。しかしなんだね、レスリングのプロならプロレスラー、将棋のプロならプロ棋士って呼ぶだろう、だったら着ぐるみのプロって何ていうんだろうね。浜岡、知ってるか。いや、僕も知らないんだけど、何ていうのかな、プロの着ぐるみの中の人。まあそんなこたどうでもいいんだけどな、てなわけで、こんな具合に芝居をしてたんだ、さっきまで」

 猫丸先輩はこちらに口を挟む余地を与えない猛烈な早口で喋しゃべりに喋ると、球体の頭をすっぽりと被かぶり直す。ねこめろんくんの再臨だ。

「こいつを、こう被ってね――やあ、みんな、ここはどこだろうね、大きなタンクがたくさん並んでいるねえ、このタンクには何が入っているんだろう、とっても気になるね、あ、あそこにちょうど研究員のお兄さんがいるよ、あのお兄さんに聞いてみよう。お兄さんお兄さーん、このタンクには何が入っているの? え、染料? 染料ってなあに」

 と、軽妙な身振り手振りで愛嬌たっぷりに、猫丸先輩は実演して見せる。なるほど、頭のデザインの異様さに目をつぶりさえすれば、かわいらしいキャラクターに見える。着ぐるみでのこういう動作や仕草は難しいと思うのだが、本当にプロみたいだ。器用な人である。

「ってな具合にね、もちろん台詞せりふは後で本職の声優さんが改めて録音するらしいんだけど、ああ、それにこんなのもやったな――おや、ここには薬品の壜びんがいっぱい並んでいるねえ、この薬品は何なんだろうね、ちょっと中を確かめてみようか、こうしてひとつ手に取って、と、蓋を開けると中には、うわあ、凄い匂いだ、何だろうこれ、変な匂いがするよ、おやおや、目が回ってきたぞ、この薬品の匂いのせいかなあ、あれえ、目の前がちかちかして幻覚が見えるよ、うふふふふふ、とってもいい気持ちになってきたよ、これはきっと気持ちよくなるお薬なんだね、末端価格でいくらくらいするものなのかなあ、これはきっと渋しぶ谷や辺りで売り捌さばけば頭の弱い若者が引っかかってこぞって買ってくれそうだぞ、よし、少しもらっていこうかな」

 おかしな裏声で実演を続ける猫丸先輩を、浜岡は押しとどめて、

「判りました判りました、もういいですから、充分です。それにおかしな悪乗りはやめてください、絶対にそんな台詞はなかったでしょう」

 小柄な猫丸先輩は着ぐるみ姿がとても似合っている。こうして立っていても、球体の頭部がデカい割には全体の身長は浜岡と大して変わらない。内部の猫丸先輩が極端に小さいからだ。まともなデザインでありさえすれば、もふもふの体に丸い頭の着ぐるみは、大きさが手頃で子供達にも親しみを持ってもらえることだろう。

 その猫丸先輩のねこめろんくんは、座らない頭を左右にふらふらさせながらくぐもった声で、

「そんなこんなで撮影も無事に終わってね、煙草たばこを一服つけようと思って外へ出てきたわけなんだよ。けど、ここは敷地内全面禁煙だそうじゃないかよ。それに入り口の受付がまた無闇に厳重でね、ライターを没収されちゃったんだ、煙草本体だけは死守したけど、あんなライター一個ぐらいで何を目くじら立ててやがるんだか。おまけにこの手だ。この手でどうやって煙草を吸うんだよ、これじゃ煙草の一本もつまめないじゃないか、どうしてくれるんだ、えっ?」

 猫丸先輩は、ふくふくに丸まった着ぐるみの、厚ぼったく鍋つかみみたいな両手を突き出して訴えかけてくる。そんなことを云われたところで、浜岡にとっては知ったこっちゃない。

「で、煙草が吸えないんでどうしたもんかとうろうろしててね、ひょっとしたらここの研究所の連中が内緒で使っている秘密の喫煙所みたいなところでもあるんじゃないかと思って、撮影のあった第四研究室とやらを離れて、あちこち見て回ってたってわけなんだ。そうしたらここの建物の前でどっかで見覚えのある後ろ姿を見つけてね、そいつが間抜けなことにぼうっと突っ立ってやがるから、ちょいと挨拶してやろうと思ってこうしてみたんだ」

 と云って、猫丸先輩は再度、ぼよよーんと球体の頭で浜岡に頭突きを喰らわせてくる。うっとうしい。こんな挨拶があるものか。それを片手で避けながら浜岡は、

「本物の俺でよかったですね。人違いだったらどうするつもりだったんですか、そんな物をぼよんぼよんとしつこくぶつけてきて」

「人違い? そんなドジを僕が踏んだりするもんかよ」

「判りませんよ、他人の空似ってこともありますから」

「うーん、違ってたら、その時は逃げりゃいい」

 相変わらず無責任な人だ。

「で、お前さんも出張なのか、僕とお揃そろいだな」

 首をふらふらさせながら、ねこめろんくんの猫丸先輩がお気楽な調子で云うので、浜岡はちょっと憤慨して、

「一緒にしないでくださいよ、俺のは社運のかかった特命なんですから。ぬいぐるみの撮影なんかとは違いますよ」

「またまた、お前さんは云うことが大仰だね、社運だなんてオーバーな」

「本当です。データを受け取りに来たんです。重大な任務なんですよ。新開発の素材のデータで、それを産業スパイだって狙っているくらいなんだし」

 云ってから、しまったと浜岡は思った。しかしもう遅い。案の定、猫丸先輩は食いついてきて、

「うひゃあ、産業スパイが出てくるような話なのか。そりゃ本当に重大な特命じゃないかよ。凄いな、おい。見たい、僕もスパイ見たい。一遍そういうの見てみたかったんだ。僕も一緒に行くぞ」

 球体の中で、猫丸先輩は目を輝かせていることだろう。まるで毛糸玉に飛びつく仔猫みたいに。この人はとにかく好奇心が旺盛で、珍しい体験には目がないのだ。

「無茶ですよ、こっちも仕事なんですから」

 浜岡が渋っても、引くような相手ではない。

「いいじゃないかよ、ちょうど僕はこの研究所のマスコットキャラに扮ふん装そうしてるんだ、怪しまれたりしないだろう」

「怪しいですって、充分に」

「いいから見せろよ、お前さんばっかり見てズルいぞ。僕もスパイ見たい」

「いや、別に必ず遭遇するものでもありませんから、産業スパイなんて。そういうのが情報を嗅ぎ回っているという噂があるだけで」

「いいよ、別に、会えなかったらこっちから呼び込んでやりゃいいだけのこったからな。機密情報を持った本社の使者はここにいますよー、って大声で」

「やめてください、そんな無茶苦茶な」

 押し問答をしていると、建物の入り口が音もなく開いた。そこから瘦せて陰気な三本松研究員が、ぼさぼさ頭で現れる。

「どうぞ、中に。室長がお待ちです」

 ぼそぼそと低い声で三本松は云い、建物の中に入って行く。浜岡が動くと、当然のごとくついて来ようとする猫丸先輩。浜岡はたまらず、

「猫丸先輩、撮影が終わったんならその着ぐるみ、もう返さないといけないんじゃないですか。いつまでも着てちゃダメでしょう」

 追っ払おうとしても、猫丸先輩はまるで気にしたふうでもなく、

「なあに、もう撮りは終わったんだから返すのはいつだっていいだろう。撮影隊は撤収準備でごたごたしてたし、ちょいと借りてるくらい構やしないさ」

 と、またぞろ無責任なことを云っている。座りの悪い首を左右にふらふらさせてくっついてきて、浜岡の云うことなど聞きやしない。

 驚いたことに、三本松は突如として出現したこの不気味な着ぐるみを気にする素振りさえ見せなかった。本当に研究以外に関心のない変人なのか。

 前と後ろを変人に挟まれて、浜岡は困惑するしかなかった。それぞれ別タイプの変人だけに、一度に相手をするには骨が折れる。三本松はずんずん歩いて行ってしまうし、遅れまいとすれば後ろから着ぐるみの猫丸先輩が追いかけてくる。

 おろおろするうちに、とうとう三人とも建物内へ入ってしまった。

 しっしと猫丸先輩を追い払いながらも、浜岡は三本松の後に従った。

 第六研究室棟は外観同様、内装もシャープな造りだった。近代美術館を思わせるスマートなデザインだ。黒と銀色を基調とした壁材も、近代的でセンスがいい。

 三人は無言で、よく磨き込まれた廊下を進んだ。エレベーターに乗る際も、ねこめろんくんはぼよよーんと扉や壁にぶつかりながらついてきた。それでも三本松は、その姿が目に入っていないかのように何も云わない。

 そして、三階でエレベーターをぼよよーんと降り、廊下の先の一室に辿たどり着いた。小さな銀色のパネルに〝第六研究室・室長〟の文字が刻まれている。

 連れ立ってその部屋に入った。

 そこはオフィスのような空間だった。

 グレーのカーペットに機能的なキャビネット。広々として、よく整頓されている。窓が大きく、陽光が溢あふれて明るい。すっきりとして開放感がある。

 大きなデスクに、窓を背にして座っていた人物が立ち上がった。四十絡みの男で、やはり白衣を着ている。短い髪に清潔感のある紳士だった。

「ようこそ、第六研へ。よくいらっしゃいました」

 紳士は、人当たりのいい笑顔をこちらに向けてきた。あれ、何だ、普通の人だ、と浜岡はいささか拍子抜けする気分だった。変人三本松の上司というのだから、もっと異様な、マッドサイエンティストみたいな人物像を想像していた。予想が外れて、ほっとする。至って常識的な人のようである。

「室長の諸井です」

「本社企画部から参りました、浜岡と申します」

 と、ごく普通に名刺交換をする。常識的な相手との常識的なやり取りだ。諸井室長は顔立ちも平凡で、白衣さえ着ていなければ普通の会社員にしか見えない。そしてやはり常識的に考えて、浜岡の背後に立つ不気味な物件が気になったらしく、

「ええと、そちらは?」

「ねこめろんくんです」

 元気いっぱいに着ぐるみの中から猫丸先輩が答える。座っていない首がふらふらと左右に揺れる。

 諸井室長は当惑したように、

「いえ、うちのキャラクターだからそれは知っています。そのねこめろんくんがどうしてここに?」

「浜岡君と一緒です、出張です。本社の方から来ました」

 平然と噓うそをつく。いや、一概に噓とはいいきれないかもしれない。確かに猫丸先輩も本社のある方からは来た。東京から出張して来たわけだから、浜岡と同じという点でもデタラメは云っていない。『消防署の方から来ました』と消火器を売りつける詐欺と同じ理屈だけは成立している。

 諸井室長は納得したのかどうか、

「そうですか」

 と、釈然としていない顔つきでうなずいた。

 浜岡としては、こんな変テコな物を連れてきてしまったのが大いに恥ずかしい。

「付き添いのかたがどんな格好をしていようと構いません。では早速、データを持ってきます。地下の金庫室にしまってあるんですよ」

 ドアの方へ向かいながら、諸井室長は云った。座っていてください、と浜岡にソファを勧めてくれる。

「金庫室とは、また厳戒態勢ですね」

 ソファにかけながら浜岡が云うと、諸井室長はドアノブに手を掛けつつ真剣な表情で、

「それは当然です。五年の歳月をかけて開発した新素材ですから。慎重にもなりますよ」

「五年も、ですか」

「ええ、我々第六研の汗と涙の結晶です」

 と、諸井室長は笑顔を見せる。浜岡もうなずいて、

「なるほど、警備が厳しかったのも納得できます」

「ああ、入り口で身体検査をされたんでしょう。気を悪くしないでください、特に今日だけ厳しいわけでもないので。ここの警備部長は少し融通の利かないところがありましてね、我々も毎日やられていますよ、念入りに」

「毎日ですか」

 浜岡がいささか驚くと、

「ええ、こういう研究施設ですんで、融通が利かないくらいでちょうどいいのでしょう。我々所員も、出勤と退勤の時には徹底的に検査されますから」

 と、諸井室長は苦笑して見せて、

「浜岡さんが検査を受けた小部屋があったでしょう、取調室みたいな。大扉のこっち側には、ああいう警備室がいくつも並んでいるんですよ。そこで厳しくチェックされます」

「まさか、所員のかた全員、携帯電話も毎日没収されるんですか」

「いや、さすがにそこまでは。スマホがないと我々も不便でなりませんから。ただ、登録していない撮影機器なんかはうるさく文句を云われますよ、しつこくねちねちと」

「大変なんですねえ」

 嘆息して浜岡が云うと、常識人の室長は笑顔を見せて、

「まあ、仕方がないですけれどね――では、すぐに戻ります」

 と、部屋を出て行った。

 常識的な人がいなくなると、何となく気詰まりになった。室長室が、急に静まり返ったように感じられる。

 ソファに座った浜岡と、入り口の脇に幽鬼のごとく佇たたずむ三本松。まるで白衣を着た亡霊みたいな陰気さだ。何も云わないし、こちらを見ようともしない。気を遣って会話を繫つなごうという意識は皆無らしい。

 そして、そんな気まずい思いで座る浜岡の背後にはねこめろんくん。こちらもなぜか、何も喋らない。普段は饒じょう舌ぜつで陽気な猫丸先輩が黙りこくっているのが一層不気味だ。何かを企たくらんでいるふうにも見える。無言の〝砂漠の球体〟は何だか怖い。首が座っていないのでその球体が右に左にふらふらと揺れている。中身が極めて小柄なので着ぐるみそのものも小さい。丸い頭部がより大きく見える。それが頭をふらふらさせて、まっ昼間のオフィス空間に無言で立っている。シュールな光景である。

 そんなシュールな空気感を打ち破って、ドアにノックの音がした。諸井室長にしては早すぎると思ったら、入って来たのは女の人だった。若い女性だ。

 彼女はお茶のお盆を捧ささげ持っていた。この人も白衣を着ている。小柄な女性だが、もちろん猫丸先輩のように極度に小さいわけではない。

「粗茶ですが、どうぞ」

 と、女性は丁寧な仕草でお茶を給仕してくれる。その所作が流れるようで、浜岡はつい見とれてしまった。そして、容姿にも見とれてしまう。白衣の女性は、年の頃は二十代半ばくらいだろうか、とびきりの美人というふうではないけれど、しもぶくれ気味のふっくらとした頰と若干垂れた眉の形に、えも言われぬ愛嬌があった。かわいらしい女性だ。浜岡は、思わず声をかけてしまう。

「第六研究室のかたですか」

「はい、研究室の柏かしわと申します」

 女性は柔らかい声で、微笑ほほえんで云った。笑顔も素敵だ。浜岡は、自分も自己紹介してから、

「柏さんは、ここの研究室は長いんですか」

「いえ、まだ三年です。院は出ていないので、新卒で入りましたけれど」

 にこやかに柏さんは答える。人当たりもよく、やはり素敵な印象の女性だ。

「三年ということは、例の新素材の開発には途中参加ですね。室長さんは五年かかったとおっしゃっていましたから」

「はい、私が入社した時にはもう基礎研究が佳境に入っていましたね」

「大変だったでしょう、大きなプロジェクトで」

「試行錯誤の連続でした。それだけに完成は嬉うれしいです。初めての大仕事なのに、2WAY伸縮の性能を高める構造体の体系作りをほとんど任せてもらいましたから」

 と、柏さんはにこにこして云う。

「それもようやく手が離れるわけですね」

「はい、後は本社の皆さんにお任せして」

「製品化ですね。ええ、必ずいい物を作ります」

 浜岡が格好をつけて請け合ったところで、いきなりドアの横に突っ立っていた三本松が口を挟んできて、

「いい製品にしてくれるのは当然です。我々がこの五年間、どんなに苦心して開発に注力したと思っているんですか。売れる商品にしてくれなかったら許しませんからね」

 熱の籠もった口調で云ってきた。相変わらずこちらと視線を合わせようとしないけれど、ヘタをしたら呪いでもかけてきそうなほど情念の入った口振りだった。

「そ、それはもちろん。企画部としても最善を尽くします」

 と、浜岡が気け圧おされながら答えると、柏さんが遠慮がちに、

「あの、どうでもいいことかもしれませんけど、ひとつ伺ってもいいでしょうか」

「ええ、もちろん、何でもどうぞ」

 と、浜岡が陰気な三本松からかわいらしい柏さんに意識を戻して云うと、

「どうしてねこめろんくんを連れてらっしゃるのですか。この子、うちの研究所のマスコットキャラですよね」

「あ、これですか、いえ、これはその――」

 と、浜岡はしどろもどろになってしまう。魅力的な柏さんとの会話に夢中で、背後に厄介者がくっついているのをすっかり失念していた。

「まあ、気にしないでください、本当に。何というか、おまけでついてきてるだけですんで」

 どうして俺が後ろめたいことがあるみたいに言い訳しなくちゃいけないんだよ、と理不尽さを感じつつ、話題の舵かじを強引に切って浜岡は、

「ところで、研究室の皆さんは全員白衣を着てらっしゃいますよね、それは制服なんですか」

 すると、今度は柏さんの方が照れた様子で、

「はい、その、所長の趣味で。理系の人間は研究着を羽織るとテンションが上がるというのが所長の方針で――」

「柏さんも上がりますか、テンション」

「ええ、まあ――上がりますね、正直に云えば」

 はにかんだように、柏さんは顔を赤らめた。やっぱりかわいらしい人だ、と思いながら浜岡は、会話が途切れるのがもったいないから話を戻して、

「で、例の新素材ですが、業界の勢力図が変わるほど画期的な物らしいですね」

「ええ、室長以下、そう自負しております」

 と、柏さんは、自信があるらしく明確に答える。

「だったら会社に対する貢献度も認められますね。冬のボーナスは期待できるんじゃないですか」

「いえいえ、うちの社がそういうところでシブいのは浜岡さんもご存じでしょう。きっと、ちょっぴり手当がつくくらいでお茶を濁されておしまいですよ」

「そりゃひどい、柏さん達は頑張ったのに」

「まあ、そこは研究員といっても会社員でしかありませんからねえ」

 笑って云う柏さんに見とれていると、後頭部にぼよよーんと、柔らかい物がぶつかる感覚があった。ねこめろんくんお得意の頭突きだ。「まったくもう、お前さんときたら、鼻の下伸ばしてるんじゃありませんよ」という猫丸先輩の声が聞こえてくるようである。

 やかましいからそれをきっぱりと無視して浜岡は、

「柏さんは研究所にはご自宅から通っているんですか」

 などと、少しプライベートに踏み込んだ話題に移行しようとしていると、入り口のドアが開いた。

 せっかくの柏さんとの楽しいお喋りタイムを邪魔してくれたのは、諸井室長だった。

 いや、邪魔とか何とかではなく、こっちが本来の用件だ。浜岡は気を引き締め直す。

「お待たせしました、データをお持ちしました」

 諸井室長はそう云ってこちらに来ると、浜岡の正面のソファに腰を下ろした。立っていた柏さんが一歩下がったので、室長が柏さんを従え、浜岡が背後にねこめろんくんを控えさせているような構図になった。ドアの横に立っている三本松の目には、なかなか奇妙な光景に映っていることだろう。

 諸井室長は、白衣のポケットから黒くて小さな物を取り出した。名刺ほどのサイズのそのカード状の物は、プラスチックの板のように見える。

「この中にICチップが入っています、どうぞ」

 ケースを差し出され、浜岡はそれを両手で受け取った。プラスチックのケースはひんやりとした感触だった。確認のためにそれを開けようとすると、

「あ、ここでは開けないでください」

 諸井室長にやんわりと止められた。

「一応電子機器ですから、埃ほこりや静電気は大敵です。開けるのは本社のラボで、しかるべき研究職のかたに任せていただきたい」

「判りました」

 まあ、俺の役目はただのメッセンジャーだからな、と思いながら浜岡は、プラスチックのケースをスーツの胸の内ポケット奥深くに、慎重にしまった。若干無防備な気がしないでもないが、仕方がない。銀の頑丈なアタッシェケースに颯爽と収納する予定だったけれど、それは警備室で没収されてしまった。そんな浜岡の動作を、ねこめろんくんが後ろから興味津々で覗のぞき込んでくるのが邪魔くさい。

「では、こちらにサインを」

 諸井室長は、クリップボードに挟んだ書類を渡してくる。ざっと目を通して、データ受け渡しに関する内容だと理解したので浜岡はそれに署名した。

 書類のボードを室長に返しながら浜岡は、

「では、私はすぐに本社に戻ります」

 そう云って立ち上がった。名残なごり惜おしいが仕方がない。特に柏さんには未練が残るけれど、仕事は仕事だ。ビジネスマンたるもの仕事には迅速に取りかからなくてはならない。

「それでは、そこまでお見送りしますよ」

 と、諸井室長が気さくに云って立ち上がる。

 そうして、揃って第六研究室の建物を出ることになった。

 ぞろぞろと、明るい陽光の下、芝生の広がる外へと出て来る。

 諸井室長を先頭に、浜岡、柏さん、三本松研究員の順だ。殿しんがりにねこめろんくんがついてくる。首の座っていない球体の頭をふらふらさせながら。白衣の三人とスーツの浜岡はともかく、やはり着ぐるみの薄緑色の不気味な姿は、どう見ても異質な存在である。しかしどうでもいいけれど、本当にもういい加減に着ぐるみを返さなくてはいけないのではないか、この傍はた迷めい惑わくな先輩は。という浜岡の内心の心配など、無論、猫丸先輩は気にする素振りすらない。

「せっかくですから研究所もあちこち見学していただきたかったのですがね」

 諸井室長が先頭を歩きながら、浜岡に云った。芝生が広々と敷き詰められ、そこを縫ってレンガの道がゆったりとした弧を描いている。その優雅な歩道をのんびりと進みながら、

「東京からさほど遠くはないのに、ここは静かでしょう」

 諸井室長は云う。浜岡はうなずいて答え、

「ええ、とてものどかですね」

 広い敷地、洒しゃ落れたレンガの道、美術館のような研究棟。確かにここは都心とは大違いだ。

「景観重視で、三階建て以上の研究棟は建てない方針なんですよ。そうすると空が広く見える。柔軟な発想にはストレスのかからない環境が大切ですからね。ビルのにょきにょき建つ東京ではちょっと考えられない贅ぜい沢たくだとは思いませんか」

 なるほど、諸井室長が語ってくれるように、高い建物がないので秋の空がことさら深く感じられる。広い空の下に芝生の敷地。そんな中、はるか向こうのレンガの道を、白衣の人がゆっくり歩いている。芝生の途中に点々と、第六研究室棟とよく似た瀟洒な建築物が建っているのも、いくつか見える。おそらく第二とか第九とかの研究室の建物なのだろう。研究棟はどれも洒落たデザインで、スマートさを競っているふうにも感じられる。他にもところどころ木々の密生した林まであり、その周囲の木陰には東屋あずまややベンチなどが設しつらえられている。ベンチのひとつでは白衣の男が二人、ノートパソコンを開いて何やら話し合っていた。

「どうせですので少しだけ遠回りしてみましょうか、散歩がてらに」

 諸井室長はそう云って、大きく曲がったレンガの道の分岐点で右側の道を選んだ。浜岡の方向感覚が確かならば、多分、鉄の大門とは反対側に進む道だ。

「こんな田舎いなかでも駅前まで出ればショッピングモールもありますからね、住むには悪くないですよ」

 諸井室長は空を見上げながら、ゆったりとした口調で云い、

「まあ、若い人には刺激がなくて物足りないかもしれませんが」

「いいえ、研究に没頭できますから、私は気に入ってますよ」

 と、浜岡の後ろを歩く柏さんが云った。その後方をついてくる三本松は例によって無口である。こちらの雑談に入ってくる様子はない。陰気でうっそりした顔つきだが、柏さんの意見に異論はないらしかった。

 ねこめろんくんの猫丸先輩も、何も云わずについて来る。薄緑色でヒビだらけの球体を被っているから顔が見えず、何を考えているのかまでは判らない。胴体の方の着ぐるみが全体的に肉厚でもこもこしているから、ねこめろんくんは足が短い。その短い足で、とてとてとて、と小走りになって進んでいる。その姿は、浜岡達に置いていかれまいと必死になっているふうにも見えて、健けな気げにさえ感じられる。実際はただ物理的に歩幅が小さいので、とてとてとて、と歩くしかないわけだが、一所懸命に歩いているように見える姿はかわいいといえばまあかわいい。薄緑の球体を覆うヒビ割れ模様の気色悪さを考えなければ、という注釈付きではあるものの。

 そうやって、麗うららかな陽気の下を散策した。

 優雅な時間だった。

 五人並んで、ゆっくりと歩く。

 鳥が一羽、高い空を鳴きながら飛んで行く。

 特命の緊張感がなければ、眠くなりそうな環境である。こういうところで日がな一日研究に没頭できるというのは、なるほど室長の云うように結構な毎日なのかもしれない。東京の雑ざっ駁ぱくな本社で慌ただしく雑事に追われる浜岡には、ちょっと羨ましくも感じられる。

 そんな中、

「おや――?」

 と、先頭の諸井室長が不意に足を止めた。自然と、後ろを歩く浜岡達も立ち止まる。

「変だな、あんなところに人が――」

 諸井室長が独り言でそうつぶやいた。

「どうかしましたか」

 と浜岡も、室長の視線の先を目で追った。

 どうやらいつの間にか敷地の隅の方まで来ていたらしい。わざとらしい空色に塗られたコンクリートの壁が、そそり立っているのが向こうに見える。例の収容所を思わせる壁である。塀の上には有刺鉄線が張り巡らされている。

 諸井室長が見ているのは、その壁の近くに建つ古い建物のようだった。浜岡も目を凝らしてそちらを見る。遠目に見ても恐ろしく殺風景な建築物だった。コンクリートだけの素っ気ない造り。三階建てだが、一見古いアパートのようにも見える。他の研究棟とは違ってデザイン性は皆無。ただの長方形の、面白くも何ともない建造物だ。窓が五つばかり並んでいて、それが三階分、計十五個あるのが確認できた。ここから見ても、どの窓にもガラスが嵌はまっていないのが判る。とうの昔に打ち捨てられた建物、という印象だった。

 それを指さして諸井室長は云う。

「今、人影が中に見えた。白衣の、多分、男だったように思う。遠くてはっきりとは判らなかったけれど」

「どこです?」

 浜岡が聞くと、諸井室長は指を伸ばして、

「ほら、あそこです、あの一階の窓。いや、もういなくなってしまったんだが」

 残念ながら、浜岡には誰の姿も確認できなかった。

 柏さんも目を細めてそっちを見やって、

「でも、室長、あそこはもう使っていないはずですよね」

「うん、旧研究棟だね」

 と、諸井室長は、視線だけを古いビルに向けつつ、浜岡に説明してくれて、

「あれはもう十年も放置されてる昔の研究室の建物でしてね。取り壊すのになかなか予算が取れずに、ああして放ってあるんです。ほら、窓ガラスがどこにも入っていないでしょう。あれは廃はい墟きょのガラスが地震や台風などで割れると危ないんで、とっくの昔に撤去してあるんですよ」

「普段は誰も近づかないはずなんです」

 と、柏さんも補足してくれる。諸井室長はうなずきながら、

「そのはずなんだけどね、怪しい人影が今、ちらっと見えたんだ」

「一階とおっしゃいました?」

「そう、一階。右から二つ目の窓の中。誰が入り込んでいるんだ? あんな廃ビルに」

 と、諸井室長は首を傾かしげて、

「気になるね、ちょっと見に行ってみようか」

 そう云うと、レンガの道をそっちに向かって歩きだす。少し早足になっていた。

 浜岡も柏さんと顔を見合わせてから、その後を追った。三本松とねこめろんくんも、黙って後からついてくる。

 レンガの道は、まっすぐその廃ビルに向かってはいなかった。ぐるりと大きく曲がっており、廃墟の旧研究棟を回り込むみたいにして、反対側に出るようになっていた。

 こうして近くまで来てみると、どうやらこちらが正面らしい。一階のまん中に入り口がある。ただ、そこはドアの板もなく、建物の中央にぽっかりと大きな口が開いているだけの状態だった。こちら側の窓は、裏面のものより小さい。三階まで窓があるが、やはりガラスは外されているようで、素通しの窓枠が嵌まっているだけだった。

 そんな建物の正面入り口の前まで来た浜岡達一行は、そこで一旦歩みを止めた。

 しげしげとその建造物を観察すると、なるほど十年使われていないというだけあって、旧研究棟は本当に廃墟にしか見えない。表面のコンクリートが劣化してヒビ割れ、あちこちが枯れた蔦つたのような植物で被われていた。人の気配は感じられない。人間の出入りの絶えた建築物は、命の抜け殻みたいに見える。これは確かに廃ビルだ。のどかな芝生の研究所内にあって、この一角だけ陰気なムードを醸し出している。

「私が見てきます。人影は裏の窓に見えたので、裏へ回って」

 と、諸井室長が云い、柏さんも、

「ご一緒しましょうか」

「いやいや、結構、一人で充分だろう。気のせいだったかもしれないからね、ちょっと確かめてくるだけだ」

 諸井室長は気軽にそう告げると、一人で歩きだす。建物の横をぐるりと迂う回かいして裏面の方へと姿を消した。

 それを見送っていると、

「せっかくだから中を探索してみたいんだけど、どうだ」

 と、浜岡の背後で突如として発言する者があった。振り返ると、ねこめろんくんこと猫丸先輩だ。座りの悪い球体の頭が、もふもふの胴体の上でふらふらと左右に揺れている。

「産業スパイが暗躍してるんだろ、怪しい人影はスパイかもしれないぞ。見てみたいな、本物のスパイ」

 薄緑色の球体の中から聞こえるくぐもった声は、やけに楽しげだ。そして、

「でも、まあ、さすがにそこまで面白い展開を期待するのもムシがよすぎるってもんかもしれないな。大方、僕と同じように煙草を吸いに来た研究員の誰かだったってオチか何かだと思うよ。ほら、ここは敷地内全面禁煙だろ、だからこっそり一服するなら、人が近寄らないっていうこの建物なんか打って付けじゃないか」

「でも、本当に不審者が入り込んでいるとしたら、怖いですね」

 柏さんが云うと、三本松研究員も珍しく発言して、

「いや、冗談抜きでスパイの可能性だってありえます。なにしろこの所内は機密事項を数多く扱っていますから」

「じゃ、三人で行ってみよう、中を見に」

 球体頭をふらふら揺らしながら猫丸先輩が云うので、浜岡も一歩前へ出て、

「だったら僕も行きます。柏さんが危険な目に遭うといけない」

「いや、お前さんは大事な物を持ってるんだろ」

 と、ねこめろんくんは、その丸っこい鍋つかみみたいな手でこちらのスーツの胸元を指してきて、

「万一のことがあったらいけない。お前さんは留守番だ。安全なここでおとなしく待っていなさいよ」

 要するに、スパイの噂にかこつけて廃墟探索をしたいだけなようだ、猫丸先輩は。そんなお遊びに重要なデータを保持している浜岡を付き合わせるのは、さすがに気が引けたのだろう。

「じゃ、行こうか」

「はい、行きましょう」

「判りました」

 猫丸先輩の誘いに、柏さんと三本松がうなずいた。そして三人は、入り口から建物の中へと、おっかなびっくりといった態度で入って行く。

 三人が廃墟の中に消え、浜岡は一人で取り残された。

 見上げてみても、建物の中の様子はここからでは見えない。内側が暗く、外が陽光に満ちて明るいからだ。窓の中には暗がりが広がるばかりで、何も窺うかがい知ることはできない。三人がどっちの方へ行ったのかすら判らなかった。

 浜岡はただ、ぼんやりと立ちつくすしかなかった。

 汚い茶色の枯れた蔦の絡まる廃ビルを見ながら、ぼうっと考える。

 猫丸先輩は、研究員の誰かがサボりに入り込んでいるのだろうと主張していた。吞気な意見である。

 一方、柏さんは、不審者だったら嫌だと云っていた。これは女性らしい考えだ。

 そして三本松研究員は、本当にスパイの可能性を疑っていた。研究を何より大切に考える彼らしい見方といえるだろう。

 立場の違いによって三人三様、意見が分かれているのがなかなか面白いと思う。

 それはともかく、この打ち捨てられたビルは本当にボロボロだなあ、と浜岡は、三階建ての建物を見上げる。今はまっ昼間だからともかく、夜中にここを探索しろと云われたら物凄く躊ちゅう躇ちょするだろう。なにせ肝試しにはもってこいの廃墟だ。きっと、好奇心だけで生きているような猫丸先輩だって尻込みするに違いない。いくら外が明るいとはいえ、柏さんが怖がっていないといいけれど。

 などと、とりとめもなく考えていたが、いくら何でも遅いのではないか、という疑問が湧いてきた。いや、猫丸先輩達三人はいい。廃墟の中を三階まで探索するのだとしたら、時間もかかるだろう。問題は、諸井室長だ。

 室長は建物の裏側を見に行った。それだけのはずなのに、まだ戻ってこない。

 建物の反対側は窓が並んでいるだけで入り口の類いはなかったはず。だから建物の内部には入っていないだろう。だのに未いまだに帰ってこない。これはさすがに変じゃないか。

 気になってくると、落ち着かなくなってきた。

 おかしい。妙な胸騒ぎを感じる。

 裏手を見に行っただけにしては時間がかかりすぎている。戻りが遅い。

 諸井室長は何をしているのだろうか。ひょっとしたら、本当に怪しい奴と出喰わして――。

 そう思い当たったら、居ても立ってもいられなくなった。

 浜岡は一気に駆け出した。

 建物の横を半周回り、裏手へ出た。

 そしてその場で息を吞み、思わず棒立ちになってしまう。

 誰かが地面に倒れていた。白衣の人物だった。

 廃ビルのすぐ横の位置、五つ並んだ窓のうち、まん中の窓の真下だ。建物に寄りそうように倒れ伏している。横向きに倒れている人物は、間違いなく諸井室長だった。

 慌てて駆け寄る。室長はエビみたいに身を丸め、建物の足元に横たわっていた。

 その脇にしゃがみ込み、浜岡は相手の肩を摑んだ。

「諸井室長っ、しっかりしてください」

 ちょっと体を揺すってみると、室長はゆっくりと薄目を開く。

「う、うう――痛――うう」

「どうしたんですか、室長、大丈夫ですか」

 浜岡が声をかけると、弱々しい目でこちらを見上げてくる。

「う、うう――ああ、きみか――私のことは、うう、構わない――早く、本社へデータを――ううう」

 そこまで云って、諸井室長は目を閉じてしまった。意識を失ったらしい。

「室長、室長っ、しっかりしてください」

 呼びかけても、もう目は開かない。引き結んだ口から意味のないうめき声が、小さく漏れている。

 そこで浜岡は気がついた。

 諸井室長は後頭部から出血しているではないか。髪に隠れているが、どこかが傷ついているらしい。頭髪を濡ぬらし、襟足から血が滴っている。

 ケガをしている、しかも頭に。これは大変だ――。

 浜岡は大いに焦った。室長を抱き起こしながら、周囲を見回す。

 すぐに、おかしな点が目に入ってきた。

 水だ。地面が濡れている。

 この辺りは打ち捨てられた廃ビルの近くなので、芝生は植えられていない。地面は剝むき出しの土である。その地面が水で濡れているのだ。湿っているという程度ではない、まるでバケツの水をぶちまけたみたいに、倒れている諸井室長の頭の周辺の土が、どろどろに濡れている。あたかも、たった今ぶちまけられたかのように瑞みず々みずしく。

 そして、実際にバケツもあった。

 古いブリキ製のバケツだ。それが濡れそぼった地面にひとつ、横倒しになって転がっている。

 一瞬でピンと来た。

 水、バケツ、そして後頭部の傷――すぐに連想が働いた。

 浜岡は反射的に、真上を見上げる。

 建物の窓があった。上にはちょうど、二階と三階の窓がある。諸井室長が倒れているすぐ上だ。ガラスの嵌められていない窓が、黒々と口を開けている。この位置関係。あそこから落としたんだ、とすぐに閃ひらめいた。

 水の入ったバケツを落とした。

 諸井室長の頭を狙って。

 水がなみなみと入ったバケツならば、三、四キロの重さがあるのではないか。それに落下の加速度が加わる。衝撃は大きいだろう。

 それで室長は負傷して倒れたのだ。その光景がありありと想像できる。何者かが二階か三階の窓から腕を突き出していて、その手にはバケツの取っ手が握られている。もちろんバケツには満タンの水が入っており、表面にさざ波が立って揺れている。そしてタイミングを見計らって手を離すと、水の入ったバケツは落下し、諸井室長の頭部を直撃する――。室長は衝撃を受けて倒れ、バケツも一緒に地面に転がる。その拍子にバケツの水がぶちまけられて、地面が濡れたわけである。

 一瞬で、その情景が頭に浮かんだ。

 そして同時に思う。こんな事故はあり得ない、と。

 タイミング的にも位置的にも、偶然こうなるなどということはない。

 何者かが故意に、諸井室長を狙って水のバケツを投下した!

 そこまで考えるのに要した時間は二、三秒。すぐに浜岡は救急車を呼ぼうと、ポケットに手を突っ込む。しかし、そこには携帯電話はない。そうだ、スマホは警備室に預けてあるんだった。しかし、外来者は預けるがさすがに研究所員はそこまでしない、と聞いたのを思い出し、浜岡は叫んだ。

「猫丸先輩っ、柏さんっ、三本松さんっ、誰でもいい、大変ですっ、諸井室長が襲われましたっ」

 建物の、窓が並んだ裏面に向かって浜岡は怒鳴る。

「誰かが室長を狙いましたっ、大変ですっ」

 その声に呼応して、三階の一番左の窓から柏さんと三本松が顔を出した。一呼吸遅れて、ねこめろんくんを脱いだらしい猫丸先輩も、ひょっこりと首を突き出す。

 こちらを見下ろす三人に向かって、浜岡はまた叫んだ。

「室長がケガをしています、早く救急車をっ」

「判りました、すぐに」

 仰天した表情で柏さんが答え、顔が引っ込んだ。

 三本松もさすがに驚いたらしく、びっくりした顔つきでこっちを見下ろしている。猫丸先輩も、ただでさえ仔猫みたいなまん丸な目を、さらに丸くしていた。

 浜岡は見上げていた顔を下げ、諸井室長の様子をみる。室長は目をつぶって、小さな唸うなり声をあげていた。呼吸の乱れは感じられないけれど、気を失っている。頭部を負傷しているから、ヘタに動かさない方が賢明だろう。

 ふと、室長の右手が何かを握り込んでいるのに気がついた。不審に思い、浜岡はその握った拳を開いてみる。五百円玉が一個、そこにあった。

 さて、それからがまたひと騒動であった。

 警備員が一個小隊ほど集結して来た。全員厳つい顔つきのゴツい男どもで、威圧的な深緑色の制服で揃えていた。指揮を執っているのは、さっきも会ったアイパッチの似合いそうな傭兵隊長みたいな男だった。どうやら彼が指揮官らしい。傭兵隊長の警備部長は、部下達にてきぱきと命令を下した。小隊の半数は旧研究棟内の捜索。残りは研究所内の要所要所を調べるために各個散開。よく訓練された無駄のない動きで警備員達は走って行く。その統制の取れた様子は、まるでCIA直属の特殊部隊みたいに見えた。

 警備隊が行動を開始する慌ただしい中、救急車も到着した。負傷した諸井室長に誰が付き添うのかと、少しわたわたした。本来ならば部下の三本松か柏さんが同乗するところだろうが、しかし二人は事件の関係者だ。おいそれと現場を離れていいとも思えない。結局、傭兵隊長の指示の下、警備隊員の一人が付き添って行くことになった。

 救急車が大急ぎで発進した後は、傭兵隊長による聞き取り調査があった。三本松研究員、柏さん、浜岡、そしてねこめろんくんを被った猫丸先輩、と一人ずつ、順番に話を聞かれた。一方的に聞かれただけではなく、浜岡の方が得た情報もあった。隊長によると、凶器に使われた古バケツは旧研究棟内で調達した物らしかった。廃ビルは老朽化が著しく、漏電の危険があるので電気は通っていない。ただ、万一の火災に備えて水道の元栓は締めずにいたそうな。だから水は出る。古いブリキのバケツに、建物の中で水を汲くんだと思われる。

 そうこうするうちにも、警備隊による廃ビルの捜索は進んでいる。外から見ているとどうしたわけだか、三階の窓から隊員の一人がロープを使い、屋上へと上がって行くのが見えた。機敏な身のこなしは、本物のレンジャー部隊のようだった。もっとも、屋上に上がった隊員はすぐに、何かを諦めたみたいな様子で、ほんの一分もしないうちに戻ってきてしまったが。

 そんなこんなで浜岡達はようやく落ち着き、今は現場近くの芝生の上に集合していた。現場の旧研究棟から三十メートルばかり離れたところだ。諸井室長の倒れていた地面には、まだ例のバケツが転がっている。古いブリキのバケツはところどころ錆さびが浮いている。もちろん重要な証拠物件なので、あえて手を触れずに置いてあるのだ。ちなみに、バケツの底のフチの部分には、血液がべったりとこびりついており、それが凶器であることが証明されている。もっとも血痕などなくても、転がったバケツとぶちまけられた水、そして被害者の倒れた位置関係からして、それが犯行に使われたのは一目瞭然なのだが。

 芝生の上に集まっているのは、浜岡達事件関係者と傭兵隊長の警備部長である。柏さん、三本松研究員、そして浜岡にねこめろんくん。浜岡の右手向こうには、旧研究棟のボロビルが建っている。こうして少し離れて改めて見ると、茶色い蔦に半分侵食された外壁には、何の取っかかりもないのが判る。ビルの裏面の窓にはベランダもなく、手すりもない。ただ、窓の穴が並んでいるだけのシンプルな造りだ。そこにはガラスさえ嵌まっておらずに、四角い穴が開いているのみなので、一段と廃ビルの雰囲気を際立たせていた。時折、警備隊員達が、二階や三階の窓から顔を出してきょろきょろしている。

 その廃ビルを背にして立った傭兵隊長は、

「おかしいですね、皆さんの話を総合すると犯人は消えてしまったことになる」

 厳つい顔に威圧感のある目つきで、浜岡達の顔をぐるりと見渡して云った。傭兵隊長は明らかに不機嫌そうだった。言葉遣いこそ丁寧だが、語気が怒っているようにしか感じられない。

「もう一度繰り返します。まず、諸井室長が不審な人影を発見した。そして皆さん全員で迂回して、あの建物の正面まで出た。この反対側の入り口のある方です。それから室長は一人でこちら側を見に来た。その直後、あなたがた三人が建物の中に入った。ここまでは間違いありませんな」

 傭兵隊長に睨にらまれて、柏さん、三本松、着ぐるみの猫丸先輩が揃って、おずおずとうなずいた。首の座りの悪いねこめろんくんは、大きな頭部が左右にふらふら揺れている。

「その間、本社から来たあなた、浜岡さん、でしたね、あなたはずっと出入り口の前に立っていた。そうですね」

「ええ、間違いありません」

 警備部長の鋭い眼光にたじろぎながらも、浜岡は答える。

「そして浜岡さんは、なかなか戻って来ない諸井室長を不審に思い、こちら側に回って来た。そこで倒れている室長を発見した。そうですね」

「はい」

「で、お三かたは建物の中を調べて、中には誰もいなかった、と」

「そうです」

 と、柏さんが代表して云った。傭兵隊長は不機嫌さを隠そうともせずに、強こわ面もての顔をしかめて、

「やはりおかしいじゃないですか。犯人が消えたふうにしか見えない。浜岡さん、あなた出入り口を見張っていたのに、本当に誰も見なかったのですか」

 疑いの眼まな差ざしで見られて、少し反発心を感じながらも浜岡は、

「見ていません、本当です」

「見落としはなかったんですね」

「ええ」

「まさかあなた、白衣を着た人物が出て来たのを研究所の者だと思って見すごした、なんてオチはないでしょうな」

「いや、まさか。白衣の人はおろか、猫の子一匹出入りしていませんよ」

 浜岡が主張すると、傭兵隊長はぎろりと怖い目で睨んできて、

「それは変でしょう。だったら犯人はどこへ消えたというんですか」

 そんなことを聞かれても、こっちも困る。

 浜岡が返答に窮していると、そこへ警備隊員の一人が駆け足で近づいて来た。そして隊長の前に直立不動の姿勢で立つと、

「報告。建物内には何者もおりません。不審な物も特に発見に至らず、です」

「うむ、ご苦労。しかし念を入れろ。不自然な痕跡などないか、もう一度一階から捜索せよ」

 淡々と命令を下す傭兵隊長に、報告係の隊員は、

「了解。再度探索します」

 びしりと敬礼すると、走って建物を迂回して行ってしまった。隊長はそれを見送るでもなく、こちらへ向き直ると、

「さて、もう一度皆さんにお聞きします。消えた犯人の心当たりはありませんか」

 そんなものがあったらとっくに云ってますよねえ、とばかりに一同は顔を見合わせる。柏さんも三本松も、不安そうな表情をしていた。ねこめろんくんを被った猫丸先輩だけは、どんな顔をしているのか判らない。

 差し出がましいとは思いながらも、浜岡は発言して、

「あの、その辺のことは警察に任せてしまってはどうでしょうか、俺達がそんな犯人探しに躍起にならなくても。そういえば警察は遅いですね。救急車はとっくに来たのに、警察はまだ来ない」

「警察なら来ません、連絡をしていないのでね」

 と、傭兵隊長はこともなげに云う。浜岡は驚いて、

「どうしてですか、これは思いっきり傷害事件ですよ、いや、ヘタをしたら殺人未遂だ。警察に届けなくちゃいけないでしょう」

 思わず食って掛かるような口調になってしまった。傭兵隊長は不愉快そうに顔をしかめて、

「もちろん届けはする。しかしその前に、何が起きたか把握する義務が我々にはあります」

「何云ってるんですか、ダメですよ、早く警察呼ばないと」

「それは判っていると云っているでしょう。後で通報しますよ」

「後って、いつです」

「事態が把握できてからです」

「それじゃ遅いですよ」

「いや、遅いとは思いませんな」

 浜岡と傭兵隊長が言い争いになると、ねこめろんくんを被ったままの猫丸先輩がしゃしゃり出てきて、

「まあまあまあ、お二人さん、そう角突き合わせてケンケンするんじゃありません。そうやって剣けん突つく喰らわせ合ったって何も進展しないんだからさ」

「猫丸先輩は黙っててください、部外者なんですから」

 浜岡が云うと、傭兵隊長も矛先を変えて、

「その通りだ。だいたい何なんですか、あなた、そのふざけた格好は。人が一人襲われて負傷している事件の最中に、どうしてそんな訳の判らん物を被ってるんだ」

「訳の判らん物じゃありません、れっきとしたねこめろんくんです」

 何のつもりか、猫丸先輩は堂々と胸を張って云う。座りの悪い頭部がゆらゆらと揺れる。そのおちゃらけた態度が厳格な傭兵隊長のカンに障ったのだろう。隊長は今までの遠慮をかなぐり捨てて、目を三角にすると、

「ふざけている場合じゃないっ、何なんだ、その態度は」

 怒鳴ったところで、電話の呼び出し音が鳴った。傭兵隊長の制服の胸ポケットからだった。隊長は鼻を鳴らしてねこめろんくんを睨みつけると、携帯電話を取り出す。着ぐるみの球体の中で、猫丸先輩はくぐもった声で、

「うひゃあ、怒られちゃったよ、こりゃとんだ藪やぶ蛇へびだったみたいだねえ」

 と、つぶやいている。そりゃ怒られもするわなあ、と浜岡は思う。そんなアホみたいな格好で謹厳実直そうな隊長に余計な茶々入れたりしたら、文句のひとつも云われるに決まっている。擁護する気にもなれない。

 その傭兵隊長は電話で話していて、

「うん、うん、そうか、判った、いや、そちらに待機せよ、うむ、頼んだ」

 通話を切った傭兵隊長は、浜岡達の方へ向き直って、

「病院に同行した部下からの連絡でした。被害者の諸井室長は命に別状はない、とのことです。ケガも見た目より軽傷。後頭部の表皮を切ったので出血は多かったが、骨に異常もなく、脳波も安定しているらしい。被害者は意識もしっかりしていて、こう証言したそうです。『いきなり後ろからガツンとやられたようで気が遠くなった。犯人が後ろに近づいて来た気配がまったくなかったから油断した。犯人の姿も見ていない』と。まあ、凶器のバケツは上から落ちてきたのですから、気配を感じなかったのは当然でしょうが、とにかく、負傷箇所が頭部ですので、大事を取って一応精密検査はするらしく一晩入院するそうです。しかしケガが軽かったのは不幸中の幸いでした」

 その報告に、柏さんがほっと胸をなで下ろし、

「よかった――ケガがひどかったらどうしようと思いました」

 安あん堵どしきった口調で云った。浜岡は「よかったですね」と柏さんにうなずきかけてから、再び傭兵隊長に向かって、

「軽傷で済んだからといって通報しないわけにはいきませんよ。水で重くなったバケツを頭の上に落とすなんて、これは殺意すら感じさせる犯行です。今回はたまたま運がよかったですけど、打ちどころによってはケガなんかじゃ済まなかったんですからね」

「それは判っていると何度も云っている。通報しないとは云っていない。しばらくの間時間をくれと云ってるのです」

 と、隊長もまたもや厳つい顔をこちらに向けてきて、

「ここは機密事項の多い研究所なんです。我々はそこの警備を一任されている。警察に引っかき回されて機密保持態勢に支障が出たら困るんだ。ヘタに警察にうろちょろされるより、犯人を捕らえて引き渡した方が効率がいいでしょう。見てください、あの壁を。ここの敷地はあんな高い壁に囲まれているんです。トゲ付きの鉄線には高圧電流が流れている。監視カメラもすべての塀の上をフォローしております。出入り口も厳重に封鎖しました。誰も外へは逃げられんのですよ。無論、犯人もです。だから犯人は今も必ずこの施設内にいる、逃げ場を失ってね。袋の鼠ねずみだ。捕らえるのも時間の問題でしょう。だから我々警備部に任せていただきたい。それともあなた、本社の浜岡さん、でしたね、万一機密が漏ろう洩えいでもしたら、その責任取れますか」

 隊長の言葉に、浜岡はぐっと詰まってしまう。サラリーマンとしては責任という言葉には滅法弱い。

「ということで、犯人は我々が捕まえます。私もその指揮を執りに行ってきますので、これで失礼」

 傭兵隊長は、話は終わったといわんばかりに踵きびすを返す。その広い背中に向けて、柏さんが、

「あの、私達はどうしたらいいんでしょうか」

「そうですね――」

 と、傭兵隊長はゴツい顔面だけをこちらに向けると、

「後で警察の事情聴取もあるでしょう。できたらここで待機していてください」

 ぶっきらぼうに云って、急ぎ足で立ち去ってしまった。

 浜岡達は取り残された。

 柏さん、三本松研究員、そして浜岡にねこめろんくんの猫丸先輩。この四人だ。四人は事件現場から三十メートルほど離れた芝生の上、何もない青空の下に放置されることとなった。

 待機していろと云われたが、俺は本社に戻った方がいいんじゃなかろうか。と、スーツの胸の内ポケットを上からそっと押さえ、プラスチックケースの感触を確かめながら、浜岡は思う。ただ、今の傭兵隊長の態度からして出口の警備はより厳重になっていることだろう。果たしてここを出て行けるのかどうか――などと頭を巡らせていると、

「ああ、もうっ、落ち着かないっ」

 唐突に、三本松研究員が叫んだ。ぼさぼさ頭を片手で搔かきむしって三本松は、

「こういうのは嫌なんですよ。犯人が消えただなんて、そういう合理性のない話を放っておくなんて許せない。落ち着かないんですっ。本当にもうっ、常識外れの事態を看過するなんて気持ち悪いっ。何もかも整然としてきっちりしてないと生理的に不快なんですよ、私はっ」

 さっきまでの無口ぶりはどこへやら、突然饒舌になっている。浜岡が今日、彼の口から聞いた言葉の総数より、いまの台詞量の方が圧倒的に多いだろう。多分、何かのスイッチがいきなり入ったのだろうけど、何がきっかけになったのかも、どんなスイッチが入ったのかも判らない。変人はやはり変わっている。

 柏さんはそんな三本松の豹ひょう変へんに慣れているのか、驚いたふうでもなく、

「そうですねえ、私もしっくりこないのは何だか据わりが悪い感じがします。警備部長さんはああおっしゃってましたけど、ひょっとしたら私達のことを疑っているのかもしれません。だからこんな中途半端な場所に待機させて――。根拠もなく疑われるのも、あまりいい気はしませんしね」

 と、不安そうに、ふっくらした頰に細い指先を当てて首を傾げる。

 ねこめろんくんを被った猫丸先輩も、球体の内側からくぐもった声で、

「うんうん、三ちゃんと綾あやちゃんの云うことももっともだね、僕も今のままの宙ぶらりんじゃ尻の座りがよくない心持ちだ。判らないことが謎のままなのは、どうにも気分が悪いもんだな」

 そうか、柏さんは綾ちゃんという名前なのか、うん、かわいらしくて似合っているな、と納得しかけた浜岡だったが、いや、猫丸先輩はいつの間にそんなに親しげに呼ぶまで距離を縮めてるんだよ、と不満に思った。恐らく、三人で旧研究棟の廃ビルを探索している間に仲良くなったのだろうけど、猫丸先輩のこの無遠慮さは何なんだ、と思う。気安く名前で、しかもちゃん付けで呼びやがって、この人はもう――。ただ、猫丸先輩は元よりそういう人だから仕方がないといえば仕方がない。下心とかそういったこととは関係なく、持ち前の人懐っこさと愛嬌でもって、するっと他人の懐に入り込んでしまう人なのだ。誰とでも、すぐに仲良しになれる。学究肌で気難しそうな三本松のことも、三ちゃん呼ばわりしているし。

「そうですね、落ち着かないのは俺も同感です。どうですか、少し四人で検証してみましょうか」

 と、浜岡は、気分を変えてそう提案した。本社に戻るのは遅くなってしまうが、どのみち出口は封鎖されているのだろう。非常事態なのだから、多少の遅参は大目に見てもらう他はない。

 そうして四人で輪になって、いい陽気の青空の下、芝生の上で話し合うことになった。

 とりあえず浜岡が口火を切って、

「まず前提として、被害者の諸井室長は水の入ったバケツを頭に落とされて負傷した。このバケツは二階、もしくは三階の窓から落とされたものである、という点には異論はないですよね」

 柏さんがうなずき、

「ええ、まさか一階の窓ということはないでしょうから」

「はい、一階の窓は位置が低いですからね。窓枠は、外の地面に人が立ったら胸辺りの高さになってしまう程度です。あの窓から外にいる人の頭部を狙うことは不可能でしょう」

 と、浜岡は、少し離れたところに建つ旧研究棟を見やって、

「そして、犯人も諸井室長と同じように外の地面に立っていて、そこで殴ったというのも考えられません。凶器は水の入ったバケツです。普通の鈍器のように、片手で振り回したりできる物ではありませんからね。人の頭にぶつけようと思ったら、どうしたって両手で抱えて振りかぶらなくてはなりません。そんな不安定な凶器を振りかざした犯人が背後から近づいて来たら、いくらなんでも諸井室長も気がつくでしょう。まして室長は不審者を探していた最中です。いつもより周囲に気を配っていたはずですからね。それに、病院からの本人の証言でも、誰も近づいて来た気配は感じなかった、というようなことを云っています。だから、犯人がそっと後ろから忍び寄ったと考えるのは現実的ではありません。さらに、ケガは軽傷だったといっても、あの出血量です。皮膚をざっくり切ったほどですから、ある程度の威力があったはずです。そうしたことを総合的に考えるとやはり、二階か三階の窓から不意を突いて水の入ったバケツを落とした、と断定しても構わないと思います」

「つまり、犯人は建物の中にいた、ということですね」

 と、柏さんも、後ろの廃ビルを振り返りながら云う。さすがに頭の回転も速い。浜岡の云いたいことをちゃんと理解してくれている。

「そうです、それを云いたかったんです。犯人はビルの中にいた。室長が最初に見た怪しい人影は気のせいなんかじゃなかったんです」

「白衣の人物、ですね」

 と、柏さん。浜岡はうなずいて、

「ええ、しかしその怪しい人物は消えてしまいました。どこにもいなかったんですから」

「ああ、もうっ、そういう不合理が許せないんですよっ」

 と、出し抜けに三本松が割って入ってきて、

「人が消えるなんて非常識なことが、起こるはずがないでしょう」

「そうです、だから皆さんに伺おうと思っていたんです」

 と、浜岡は三本松をなだめながら、

「皆さんは三人で建物の中を調べましたよね。その時に見落とした可能性はありませんか」

「ない、と思います」

 と、柏さんが申し訳なさそうな口調で云った。ねこめろんくんの猫丸先輩も話し合いに加わってきて、

「そう、綾ちゃんの云う通り、それはないんだよ。いいか、浜岡、僕達は三人でひと固まりになって行動してたんだ。探索っていっても三人手分けして探してたんじゃない。常に三人一緒だった。だってそうだろ、もし不審者なんてものが本当にいると、綾ちゃんが一人のところに出喰わしたら大ごとだ。かといって三ちゃんもこの通り細っこいしな。ひょろひょろで頼りないから、到底一人で行動させるわけにはいかない。ついでに云えば僕だってこの格好だ。こんなもこもこに着膨れてまん丸な体じゃ普段みたいに身軽にゃ動けやしない。だから結局、三人一緒に探索することにしたんだ。ずっと三人で行動していた。だから行く先々、常に三人の目があったわけなんだ。合計六つの目ん玉で見回ってたんだからな、そいつを逃れるのは無理な話だろう。見落としなんざありっこないんだよ」

 滑舌のいい早口で云う。ねこめろんくんを被ってくぐもっていても、猫丸先輩の言葉は明瞭で聞き取りやすい。それはともかく、浜岡は何となく、三人バラバラになってそれぞれ探索していたのだと思い込んでいた。しかしそれはどうやら間違っていたようだ。三人は常に行動を共にしていた。だが、だったら逆に、その目を欺く手段もあったのではないだろうか。浜岡はそう思い、

「どこかに隠れるとか、そういう手があるんじゃないでしょうか。三人をやり過ごして先手を打って立ち回れば、どうにか身を隠せるんではないですか」

「あ、浜岡さんは中を見てないんでしたっけ。だったら判りにくいかもしれません」

 と、柏さんが両手をぽんと打って、

「先に内部構造を説明しておくべきでした。気が回らなくてすみません。といっても、造りは簡単です。要するに、ハーモニカ構造なんですね。浜岡さんが見張っていた方、つまり出入り口のある表側は、廊下が一本通っています。そしてこっち側、建物の裏面に部屋が五つ並んでいる。そういう単純な造りになっているんです、ちょうどハーモニカみたいに。一階の入り口から建物に入ると、廊下が左右に伸びていて、正面に上にあがる階段があります。階段の左にはトイレ。そしてその横に、部屋が二つ並んでいます。そして階段の右側にも、今度は三つの部屋のドアが並んでいる、という形です。表側には廊下があるだけで、部屋や階段は裏側にずらっと一列に並んでいるわけで、ハーモニカ構造といったのが判っていただけると思います。そこを三人一組で順番に調べました」

 丁寧に説明してくれる。柏さんの云うその建物内構造図を頭に思い描きながら、浜岡は口を開き、

「とはいえ、隠れる余地はあったんじゃないでしょうか。例えば、こんなのはどうです。最初の一部屋か二部屋目を三人が探索している時、犯人は四番目か五番目の部屋に隠れているんです。そして三人が移動して三番目の部屋の入った瞬間を見計らって、こっそり廊下を忍び足で通って、犯人は一番目の部屋に移動する。こうやって皆さんの捜索をやり過ごすわけです。まさか一度調べた部屋に犯人がいるとは、誰も思わないでしょう」

「ところがどっこい、そうはいかないんだよ、浜岡」

 と、ねこめろんくんの頭部をふらふらと揺らしながら、猫丸先輩が云う。

「そいつは無理なんだ。実はな、僕は一人だけ、どの部屋にも入ってはいないんだよ。なにしろこの丸い頭を脱いで抱えてたからね、こいつが邪魔で、ドアから中へ入るのが億おっ劫くうだったんだ。だから綾ちゃんと三ちゃんが各部屋に入っている時、僕はずっと廊下にいたんだな。視界が狭いから、ねこめろんくんの頭も外してね。片目で室内を調べる二人を見守って、もう片方の目で絶えず廊下を見渡してたわけだ。な、これじゃ隙なんかありゃしないだろ。犯人が部屋を移動なんてしたら、必ず僕の目に止まる。僕に見つからずに移動するのは不可能なんだ。そしてもちろん、そんな奴なんぞ影も形も僕は見ちゃいない。天地神明にだって仏様にだってサンタクロースにだって誓うぞ。僕は誰も見ていない。移動する犯人なんてどこにもいないんだ」

「なるほど、そうですか――」

 猫丸先輩はこういう時、目端が利く。うっかり見落としをするタイプではない。その猫丸先輩がこうまで断言するなら間違いはないのだろう。建物の裏側の窓にはベランダも手すりもついていない。だから、部屋を移動するには内部の廊下を使うしかないのだ。そこを通っていないのならば、犯人は部屋を行き来することができない。と、そんなことを浜岡は考えながら、

「移動がないのは判りました。でも、部屋の中に隠れる場所はあったんではないでしょうか。柏さんと三本松さんはそれを見逃してしまった」

「いいえ、全部の部屋は空っぽでした」

 と、柏さんが首を振って、

「ロッカーやキャビネットなんかの什器じゅうきは、全部撤去されているんです。だから部屋の中にはほとんど物がなくて、がらんどうだったんです。電気はつきませんでしたけど、窓から明るい光が入ってきていましたから、部屋の中はよく見えました。けど、人が身を隠せるような場所は、どの部屋にもなかったんです。カーテンも、もちろんありませんでしたから、そこにくるまって隠れるなんてこともできませんしね。部屋の中にあったのは、モップやチリトリ、あとは、それこそ古いバケツが転がっている、そんなものでした。あれでは人が隠れることはできないでしょう」

「そうですか。俺はてっきり、中はもっとごちゃごちゃしてて、隠れるような場所があるのかと思い込んでいましたよ」

 と、浜岡は云う。柏さんの説明によれば、そんな場所はないようだ。そして、

「バケツが転がっていたなら、犯人はそれを使ったんでしょうね。水道は出るようですから、トイレかどこかで水を汲んで凶器にしたんだろうと、さっきの警備部長さんも云っていましたっけ」

「私も、最初に現場を見た時、そう思いました」

 柏さんは云う。浜岡は、そのふっくらと愛らしい頰のラインを見ながら、

「移動といえば、足跡はどうでしたか。犯人の足跡です。その痕跡を辿れば、犯人の行動も判るんじゃないでしょうか」

「それが、残念ながらダメですね。足跡はつかないんです」

 と、柏さんはふるふると首を振り、

「あそこは全部窓ガラスが外されているでしょう。長年そういう状態だったから、吹きっ晒さらしだったんでしょうね。どの部屋も廊下も、雨風が入り放題だったみたいです。それで床は埃と泥が固まって、外の地面みたいに硬くなっていました。土埃が乾いてカチカチに」

「そう、あれじゃ足跡なんざ残るはずもないんだよ。探索しながら、綾ちゃんと三ちゃんともそう話したもんだ」

 と、横からねこめろんくんの猫丸先輩が補足する。

 そうか、それは残念。犯人が消えてしまったなどと信じていなかった浜岡にとって、なんだか風向きが悪くなってきたように思う。多分、誰かが何かを見落としていて、それで怪しい奴が消失してしまったように見えているだけだろう。何となく、そんなふうに思っていた。しかし、その見落としが何なのか、なかなか判らない。どこかに手掛かりがあるといいのだけれど、と考えて、ああ、そうだ、手掛かりといえば――ふと思いつき、浜岡は質問して、

「声は聞きませんでしたか。探索中に、窓の外から声を。ひょっとしたら頭にバケツが落下した時、諸井室長が悲鳴をあげたかもしれません。それに、水の入ったバケツが地面でバウンドした音も」

「いいえ、聞いていませんね」

 柏さんが云い、ねこめろんくんも巨大な球体頭をゆっくりと横に振る。三本松も無言で顔を左右に動かし「いいや」とサインを送ってきた。

 そうか、犯行のタイミングは判らないか――浜岡は少し悔しく思う。どのタイミングで犯行があったか判明すれば、犯人の行動も推察しやすいと思ったのだが。とにかく、犯行時刻は諸井室長が一人で建物の裏手に回ってから、浜岡が発見するまでのどこかということになる。ほんの十分ほどの間だ。どうにかしてその正確な時間が判らないかと思ったけれど、誰も何も聞いていないのではそれも難しいかもしれない。もちろん、建物の反対側に一人で立っていた浜岡自身も、何も聞いていない。

「もう少し、犯人がどう動いたか考えてみましょうか」

 と、浜岡は気分を入れ替えて提案し、

「まず、犯人は二階か三階の窓から犯行を行った。これは確かです。そこから建物の外にいた諸井室長の頭に水の入ったバケツを落とした。室長が倒れていた位置から考えて、五つある窓のうち、まん中の窓から落としたのは間違いないでしょう。それが二階か三階かは今はおいておくとしてですね、逃走経路はどうだったんでしょうか。犯行後、二階もしくは三階のまん中の部屋を出て、どっちへ向かったと思いますか」

「普通に考えれば、一階へ下りようとしますよね、逃げるために。ですから、向かったのは階段です」

 と、柏さんが打てば響くようなタイミングで答えてくれる。

「そうです。しかしその時にはもう、皆さん三人が建物の中に入っていました。諸井室長が裏側へ回って三人が中へ入るまで、ほとんどタイムラグはありませんでしたから。でも犯人が階段を下りてきたら、皆さんと鉢合わせしたはずでしょう」

「そうだな、もし僕らが入るより前に下りてきていたとしても、これもどうにもならん」

 と、ねこめろんくんの猫丸先輩は、

「その時、建物の入り口前には僕達四人がもう立っていたんだ。裏手に回る室長を見送ってね。だから犯人が出入り口から逃げ出すのは、絶対に無理なんだよ」

「それでどこかの部屋に隠れて――というのはもう否定されたんでしたよね」

 浜岡が云うと、柏さんが軽くうなずいて、

「そうです、私達三人で一部屋ずつ見て回りました。入って左の奥の部屋から順番に。私と三本松さんが室内に入った時、廊下はねこめろんくんが見張っていたんです。だから犯人は移動できるはずがないんです」

 猫丸先輩もそれに続けて、

「そうやって一階の部屋は全部調べたんだよ、奥から順繰りに。もちろんトイレの中もな。けど、誰もいなかった。犯人の姿はおろか、仔猫一匹姿を見ていやしないんだ。怪しい物が置いてあるなんてこともなかったよ、部屋はすっからかんだったし。その辺は綾ちゃんと三ちゃんがよく見ている。そうだよね、三ちゃん」

「ええ、何もなかったですね」

 無口な三本松が猫丸先輩の問いかけにちゃんと答えたのに、浜岡はちょっとびっくりした。何だ、ちゃんとコミュニケーションが取れるんじゃないか、と思いつつ、

「では、二階のどこかに隠れたということでしょうか。逃げようとして階段を下りかけたら、一階を探索する三人の声がする。多分猫丸先輩のことだから、探検気分ではしゃいだ声でもあげていたことでしょうからね。それで犯人は階段を下りるのを断念して、二階のトイレにでも身を潜める」

「お言葉ですが、その後はどうするんでしょう。一階を探してから、私達三人は当然二階へ向かいました。そして一階と同じように、一部屋ずつ見て回りましたよ」

 柏さんが疑義を呈すると、猫丸先輩も横から、

「そうそう、僕も一階の時と同じように廊下に立って、部屋の中と廊下を同時に見張っていたんだぞ。その時も、もちろん誰かがこっそり移動している姿なんか見ていやしない、一階と同じようにな。当然、各部屋の中にも異常はなかった。そうだったよな、三ちゃん」

「ありませんでした」

「トイレの中も調べたよね」

「はい」

「何もなかったし、誰もいなかった」

「ええ」

 三本松が短く答えると、柏さんがそれを引き継いで、

「そうやって、二階を見て回りました、一部屋ずつ順番に。左の隅から右の五部屋目まで、トイレも含めて何も発見できませんでした」

 猫丸先輩も付け加えて、

「もちろん階段を使った者もいないよ。廊下から階段の上り口と下り口は丸見えだからね、ずっと僕の視界に入っていたんだ」

 浜岡はその言葉にうなずきながら、

「それで、二階の捜索を終えて、今度は三階へ行ったんですね」

「はい、三人揃って階段を上がりました。後の手順はこれまでとまったく同じです」

 柏さんが云い、猫丸先輩も、

「綾ちゃんと三ちゃんが各部屋に入って調べて、僕は廊下に立っていた」

「三階でも、誰の姿も見ていないんですね」

 浜岡が確認すると、柏さんはきっぱりと、

「ええ、誰も。そして最後に一番右奥の部屋を調べている時に――」

「お前さんの胴間声が聞こえてきたんだ、外の、裏手の窓の下からね。室長がケガをしているとか何とか、お前さん、叫んでいたよな。それで三人で、何ごとだろうと窓から外を見てみたってな按配さね」

 猫丸先輩はそう云う。その時の姿は浜岡も見ている。三人で、不可解そうに顔を出してきた。そうか、あれは最後のひと部屋を調べ終わった後だったのか、と浜岡は納得しかけて、すぐに首を傾げる。あれ? だったら犯人はどこにいったんだ?

 その疑問を口に出して浜岡は、

「犯人、どこにもいなかったんですよね」

「だからさっきからそうみんなで騒いでるんだろうが、犯人が消えちまったって。何を今頃気づいたみたいな顔してるんだよ、お前さんは、鳩はとが豆鉄砲を喰らったような面しやがって。今になってようやく吞み込めたのか、このニブチンめが。ここまで懇切丁寧に説明してやらないと理解できないなんて、お前さんの方がよっぽどメロン頭じゃないか、この大間抜けめ」

 猫丸先輩がやけに嬉しそうに云う。柏さんの見ている前であんまりボロカスに罵倒するのは勘弁してほしい。

 いや、そんなことはともかく、これで確かに異常事態なのはよく判った。犯人は本当に消えてしまっている。建物の中のどこにもいなかった。何か見落としや錯誤があっただけなのだろうと高をくくっていたけれど、これでは本当に超常現象ではないか。不思議だ。不可解だ。

 二の句が継げないでいる浜岡に、今度は柏さんの方から聞いてきて、

「浜岡さんは、入り口の前にずっと立っていたんですよね」

「ええ、そうです」

「誰も逃げ出してはいませんね」

「もちろんです。さっきも云いましたが、入り口のすぐ前に立ってましたから、見逃すはずはありません」

 浜岡は、傭兵隊長に尋問された時と同じように断言した。何度聞かれても答えは変わらない。探索組三人が廃ビルに入ってから、ずっと張り番をしていた。絶対に誰も出入りなどしていない。

「そして浜岡さんは、こっち側へ建物を迂回して来て、室長が倒れているのを発見したんですよね」

 柏さんに再度確認され、浜岡は答える。

「うん、戻るのが遅いから気になって」

「その時にはもう、私達は旧研究棟の全部の部屋を調べ終えていたんです。浜岡さんが出口を見張っている間に、です。でも犯人はどこにもいなかった。これはどうしたことでしょうか」

 柏さんは、小首を傾げる。かわいらしい仕草だった。

 浜岡は、はたと気がついて発言する。

「屋上は? どうですか。屋上に逃げたとは考えられませんか。もしかしたら水の入ったバケツを落としたのも、そこからかもしれない。犯人はずっと屋上にいたんですよ」

 しかし、柏さんは首を振り、

「いいえ、屋上へは上がれないんです。扉に鍵がかかっていて、鍵穴も錆だらけで半分錆の中にうずもれていました。あれでは何者かがキーを持っていたとしても鍵は開きません。ドア枠もほとんど錆ついていて、扉自体が開きそうにありませんでしたし」

 猫丸先輩も、隣で球体の頭をふらつかせながら、

「僕が三階の廊下を見張ってる間に、綾ちゃんと三ちゃんが屋上に出る階段を上がってって調べたんだ。でも、二人ともすぐに諦め顔で下りて来た。そうだったよね、三ちゃん」

「鉄の扉が錆びついていました。あれは開きません」

 陰気な口調で、言葉少なに三本松は云う。

「その扉の前、踊り場に人が隠れるような場所はありませんでしたか」

 浜岡の質問にも、三本松は短く、

「ないですね」

 と、即座に否定するだけだった。

 そうか、あの傭兵隊長率いる警備隊が屋上を調べるのにレンジャー部隊よろしく三階の窓から上がって行ったのは、ドアが開かないから仕方なくロープを使って上がっていたんだ。と浜岡は、さっき見た光景を思い出す。

 屋上に上がった警備隊員は何も発見できなかった様子だった。すぐに戻ってきていた。とすると、犯人は屋上には上がっていない。屋上が無関係だとすると、他には何が考えられるだろうか、と浜岡は額に片手を当てながら、

「二階の窓から飛び降りて逃げた。そうだ、これでいけるでしょう。逃走経路はここしかありませんよ。皆さんが一階を調べている間に、犯人は、こっち側の二階の窓から飛び降りるんです。僕は表側の出入り口の方にいましたけど、裏には誰もいません。こっちから飛べば誰にも見られずに逃走できます。地面に被害者の諸井室長が倒れていましたけど、室長はほとんど気絶状態でした。だから犯人が近くに飛び降りてきても気がつかなかったんでしょう」

 我ながらいい考えだと思って自信満々に云うと、ねこめろんくんの中の猫丸先輩は、大きな球体の内部からくぐもった声で、

「いや、ちょっと待ちなさいよ、浜岡、犯人が何のためにそんなことしなくちゃいけないんだ。そんな危ないマネをしたら、足を挫くじいたりしてケガするかもしれないじゃないか。足を痛めちまったらもうそこから逃げられないぞ。そんなリスクを負ってまで飛び降りる必要なんてあるのか」

「それはもちろん、追いつめられた結果ですよ。皆さんが三人で一階の探索をしていて、その声が聞こえたんでしょうね。二階にいた犯人は、それで誰か第三者が建物内に侵入して来たのを知ったわけです、それも複数人が。会話の様子だと、どうやら闖ちん入者にゅうしゃはひと部屋ずつ調べて回っているらしい。そう犯人も気づいたはずです。きっとそのうち二階へも上がって来るだろうと予測もつく。それで逃走経路を塞がれたと悟った犯人は、仕方なく二階の窓から飛んだ、というわけです。捕まるよりマシだから、リスクを承知で」

「だからなんでそんな極端なことする必要があるんだよ。それこそどこかの部屋に一旦身を隠せばいいだけの話だろうに」

 猫丸先輩が云うので、浜岡は反論して、

「でも、隠れていても次は二階が調べられるんですよ。身を隠しても見つかる可能性は大きいです」

「いやいや、僕の云ってるのはそういうこっちゃないんだ。いいか、僕達がどうやって探索して回ってるか、その段取りを犯人は知らないんだぞ。人数だって正確には判らない。まさか三人一組で固まりになって歩いていて、ましてそのうちの一人が絶えず廊下を見張ってる、なんてことは犯人が予測できたはずないじゃないか。だからケガのリスクを背負ってまで二階から飛び降りるくらいなら、まずはどこかに隠れて探索者をやりすごそうと考える方が自然だろう。普通に考えたら、誰だってそう判断するに決まってる。とりあえず身を隠して、隙を突いて一階に下りて普通に出口から出て行く、そういう手段を選ぶのは自明だろうに」

「けど、出口の前には俺が立っていたんですよ。そこから逃げたら俺と鉢合わせするじゃないですか」

「このスカポンタン、だから犯人がどうしてお前さんがそんなところに突っ立っているのを知ってるっていうんだよ。お前さんが張り番をしていたのは、あくまでも結果的にそうなったってだけのことじゃないか。犯人が前もってそれを知ってるはずがないだろう」

「だったら、一階の出口の前まで来た時に、俺が外に立っているのに気がついて、トイレかどこかに隠れた、とか」

「判らん奴だねお前さんも、吞み込みが悪いにも程があるぞ。いいか、浜岡よ、その時にはもう僕らの探索は始まってたんだ。一階は調べ始めていたんだぞ。階段を二階から下りてくる奴がいたら、一階の廊下を見渡していた僕の目に止まっているはずじゃないか」

「あ、そうか、いや、だったら、一階の裏側の窓から出て行けばいい」

「それも無しだな。犯人はどうやったって、僕の目を逃れて一階へ下りてくることなんぞできやしないんだから。なにしろ僕はずっと、廊下も階段も見張ってたんだからな」

 猫丸先輩はねこめろんくんの内部できっぱりと云う。

 それではもうお手上げじゃないか、と浜岡は混乱してきた。どう行動しても探索組三人の目に止まってしまう。おまけに外の出入り口を見張っていたのは浜岡自身なのだ。どうにも逃げられない。逃走経路はすべて塞がれている。

 だったらどうする?

 三階の窓から飛び降りるか。いや、それはもっと危険だ。三階の窓は高い。ヘタをすれば足の骨を折る。そしてさっき猫丸先輩の云ったように、窓から飛び降りるくらいなら隙を突いて階段を使おうと考えるのが普通だ。犯人は探索チームがどういう手順で動いているのか知らないのだから、どこかに隙があると判断することだろう。様子を見るため、一階まで抜き足差し足で階段を下りて来るに決まっている。まさかその階段を、目端の利く着ぐるみ姿の小男に見張られているなどとは夢にも思わないだろうから。

 しかしその小男は犯人が階段を下りて来る姿を見ていない。犯人はなぜか、上階に留とどまっていたのだ。そして、探索チームは二階、三階と調べていったが、誰かが隠れているのは発見できなかった。

 ん? だったら、あの蔦に摑まって下りるか、と浜岡は、廃ビルの表面を被っている茶色く枯れた植物を見ながら、苦し紛れに考える。窓から飛び降りるのが危険でも、何かにしがみつけば、ずるずると下りて来られるのではないだろうか。いやしかし、あんなボロボロに枯れた蔦に人間一人の体重を支える強度があるとも思えない。絶対に途中で千切れて、犯人は落下するだろう。そうなったら目も当てられない。これもダメだ。犯人は窓から逃げてはいない。

 ううん、これは本当にお手上げだぞ、と浜岡は頭を抱えたくなってきた。これでは本当に、犯人が消えてしまったとしか思えないではないか。どこかに見落としがあると高をくくっていた自分の間抜けさ加減に腹が立つ。しかし、これはどう考えても奇怪だ。異常現象にしか思えない。犯人が消えてしまうなんて。これは一体どうしたことだろう。

 呻しん吟ぎんする浜岡の横で、柏さんが遠慮がちな口調で発言する。

「あの、これは今さらどうでもいいことかもしれませんけど、諸井室長はどうして狙われたのでしょうか。いえ、これまでのお話からは逸それますけど、あんな悪意のある方法でケガをさせた犯人の意図が、少し怖くて、気になっていたものですから」

 柏さんが気にするのも、もっともだと浜岡は思った。あれは悪意どころか殺意すら感じさせる犯行である。たまたま軽傷で済んだものの、場合によっては即死していたかもしれない。殺人未遂だ。

「犯人は白衣を着ていたと諸井室長は証言していましたね」

 と、浜岡は考えながら、口を開いて、

「白衣を着て、外部の者がここの研究者に変装していたのか、それとも本物の所員だったのかまでは判りません。ただ、無関係な研究員なら、あんな何もない廃ビルになんか入って行くとも思えないんですよ。外部犯の変装だとしても本物の研究員だとしても、怪しい行動という他はありません。恐らく、人には表立って云えないような後ろ暗い目的があったに違いないでしょう。犯人は何らかの良からぬことを企んでいたと推測できます。悪事を働いていたからこそ、顔を見られたと思って室長を抹殺しようとしたんじゃないでしょうか」

「良からぬこと、というと、具体的には?」

 柏さんが再び首を傾げる。浜岡は答えて、

「あくまでも憶測ですが、この研究所は機密事項をふんだんに扱っているとさっき警備部長さんも云っていましたよね。そこから考えて、スパイ行為か何かではないか、と俺は思うんですけど」

「産業スパイが潜入している、とおっしゃるんですか」

 柏さんが疑問を口にすると、突然、三本松が割って入ってきて、

「しかし、見てください、あの高い壁を。ここの敷地はあんなに頑丈な壁で囲われているんですよ。壁の上には有刺鉄線に高圧電流の防犯措置までなされている。おまけに警備はとびきり厳重だ。こんな中にスパイなど入って来られるものでしょうか。いや、来られるはずがない。不合理ですよ。そういう不合理な解釈は、どうにも納得できませんね。私はそういう合理性を欠く事象は許せない性質なんです。ええ、許せません」

「いや、まあ、落ち着いてください、そう興奮しなくても」

 と、浜岡は三本松をなだめておいてから、

「だから俺は、内部の者が犯人ではないかと疑っているんです。ここの研究員の誰かですね。ここには研究室が第十研まであって、何十人という研究員がいるんでしょう。その中の一人です。白衣を来ていたのも変装などではなく、ただ正規の服装をしていたにすぎないんです。従って犯人は、被害者が第六研究室の室長だとちゃんと判っていたわけです。それだから、自分の顔を見られるのはマズいと感じた」

「つまり、被害者と犯人は顔見知りだった?」

 柏さんがちょっと驚いた顔で云うので、浜岡はうなずき、

「その可能性は高いと思います。だからこそ室長の口を封じようとしたのでしょう。自分の正体がバレるのを恐れて」

「判りました。目的に関してはそういう推測も成り立つということで納得できます」

 と、柏さんはふっくらとした頰に指先を当てて、

「ただ、もうひとつ疑問点があります、ほんの些さ細さいなことですけど」

「構いませんよ、この際どんな小さな疑問でも潰していきましょう」

 浜岡が促すと、柏さんは、

「犯人は正確に、被害者の室長の後頭部を狙いましたよね。二階か三階かはまだ判りませんけど、とにかくあのまん中の窓から水の入ったバケツを落としたわけでしょう。そして一度で命中させています」

「そうですね、一発で当てないと、被害者が上からの落下物に気がついて警戒してしまいます。二度目のチャンスはないでしょう」

「その一回きりで当てたのが、どうしても私、しっくり来ないんです。そんなにうまくいくものでしょうか。手近にあったバケツを使ったことといい、これは突発的な犯行だったはずですよね。犯人は練習なんかしていないはずなんです。だのに犯人は、位置を一度で正確に計りだしています。そんなに都合よくいくのでしょうか」

 柏さんは真剣な表情で云う。なるほど、もっともな疑問だ、と思った瞬間、浜岡はピンと来た。

「そうか、だから五百円玉なのかっ」

「五百円玉?」

 柏さんが不思議そうに云い、三本松も怪け訝げんな顔つきでこっちを見ている。

「そう、五百円硬貨です。被害者は右手に五百円玉を握り込んでいました。倒れているのを発見した時、室長が何か握っているから、何だろうと思って調べてみたんです。どうしてあんな物を握っていたのか判りませんでしたけど、柏さんが疑問を提示してくれたからたった今、思い当たりました。あの五百円玉、あれはマーカーだったんですよ」

「マーカー、ですか?」

「ええ、落下地点を正確にするための目印です。つまり犯人は五百円玉を地面に置いておくことで、被害者の立つ位置をコントロールしたんですね。五百円玉が落ちていれば、大抵の人は何気なく拾ったりするでしょう。諸井室長もあの時そうした。犯人はその前に、バケツの水を一滴垂らすか何かして、五百円玉の真上の位置を測量しておいたんです。もちろん五百円玉も窓から落としたんでしょうけど。そうすれば水の入ったバケツも正確に投下することができる。五百円玉はそのためのマーカーだったんですよ」

「あ、そうか、だから後頭部だったんですね」

 と、柏さんが感心したように声をあげ、

「室長の傷が頭の後ろにあったことも、どうしてだろうと気になっていたんです。でも、その疑問もこれで解けました。被害者が硬貨を拾おうとしゃがみ込んだところを、犯人は狙ったんですね。屈かがんで下を向いた時に、水の入ったバケツを落下させた。しゃがんで地面を向いた姿勢だったから、バケツは後頭部に当たったんですね」

「その通りです」

 そこまでは考えていなかった浜岡だったが、柏さんに感心したような眼差しを向けられて、悪くない気分だった。

 真相の一端を解き明かしたこの勢いで、犯人消失の謎も判らないだろうか、と浜岡は頭を回転させる。

 廃ビルの中からどうにかして逃走する手段はないものか。一階から上がってくる捜索部隊に見つからずに。

 二階の窓辺りからロープか何かを伝って降りるというのはどうだろうか。ビル内にはモップやチリトリやバケツなどが落ちていたという話だ。その中にロープがあったとしたら使えるのではないか。ロープをどこかに結んで、それを伝って窓から外へ――いや、ダメだ。それだとロープが残ってしまう。回収できない。そしてもちろん、現場には垂らされたロープなど残っていなかった。

 それともロープをUの字状にして使い、降りた後で片方のロープを引っぱって、全部を回収するか。いや、そうなると今度は、その回収したロープをどう処理したかという問題が出てきてしまう。ロープを使ったのなら、そんな物は現場に投げ捨てて行けばいいのだ。逃走方法など見破られても犯人にとっては痛くも痒かゆくもないのだから、現場に放置しておくのが最も効率的だろう。しかし実際には、現場にそんな物は捨てられていなかった。では担いで逃げるかといえば、それもナンセンスだ。そんなことをしたら目立って仕方がない。後で警備部や警察が聞き込みに回ったら、たちまち目撃者が出てきて犯人の正体が判明してしまうだろう。ロープを担いで逃げるなど、愚の骨頂だ。だけど現場に捨てられていないのだから、やはりロープなど使われていないと考える他はない。

 だったら、道具は何も使わなかったと考えるのはどうか。ボルダリングのように、壁を伝って降りる? いやいや、壁にはそんな手足を引っかけるような出っ張りはないし、落ちる危険もある。犯人がわざわざそんな危ないことをするはずもない。枯れた蔦を使うのも、先ほど却下した。そもそも、そんなリスクを負うくらいなら、さっき猫丸先輩の云ったように、内部の階段を使うという正規のルートを選ぶだろう。犯人が窓から逃げたとは思えない。

 では一体どうするか。内部は三人の探索組が見て回っていた。廊下は特に猫丸先輩が目を光らせていた。目端の利くこの人の目を欺くのは難しいだろう。となると、やはり内部での移動は不可能と考えるべきか。そうなると犯人は、犯行を犯した部屋から逃げられなくなってしまう。雪せっ隠ちん詰づめだ。そこから廊下に出ずに、どうやって逃走する? 廃ビルのこちら側はただのコンクリートの壁だ。ベランダも手すりもないから、細工をする余地がない。のっぺりとして窓の穴がぽっかりと開いているだけの建物からは、どうやったって逃れようがない。

 何かないか。方法はないか?

 実は、犯人は犯行時に中にはいなかった、とか?

 三人の探索チームが建物に入る前に、一階の窓から裏側に出て来ていた――いや、そうすると、水の入ったバケツを投下する時間がなくなる。被害者の諸井室長が裏手に回るのと、探索隊が入り口をくぐるのにはそれほど時間差はなかった。もし二階や三階からバケツを落とした犯人が逃げて来たら、階段のところで探索隊と鉢合わせする。さらに、被害者は後頭部をざっくりと切っていた。あれだけの傷は、水の入ったバケツをある程度の高さから落下させないとできないだろう。バケツは二階か三階から落下させたと見るしかない。

 ん? 落下のエネルギーを他の方法で得ることはできないか? 例えば遠心力。水の入ったバケツをぐるぐる回す。そうすると遠心力で水はこぼれない。小学生の理科だ。そうやってぐるぐる回しながら被害者の後頭部を殴りつける――いやいや、さすがに無理がある。そんなのが近づいてきたら被害者が逃げるに決まっている。ぐるぐる回転するバケツが頭にヒットするまで、おとなしく待っていてくれる被害者などいるはずもない。やはりバケツは、二階か三階から落としたと断定するしかなさそうだ。

 だが、その犯人の姿を三人の探索チームは目撃していない。そしてどこにも逃げ道はないのだ。

 犯人はやっぱり消失したとしか思えない。

 いかん、これでは堂々巡りだ。

 などと浜岡が頭を悩ませていると、三本松が突然、ぼさぼさ頭を搔きむしり、

「ああっ、もうっ、判らないっ、不可解だ、不合理だっ、犯人が消えたみたいに見えるなんて、こういうのは落ち着かないっ、嫌なんですよ私は、こんな合理的でない事態なんて。どうにももやもやして気分が悪いっ」

 誰にともなく訴え始める。三本松も思考が行き詰まり、苛いら立だっているようだ。

 柏さんも眉を顰ひそめて、

「本当に変ですね。犯人はどこへ行ってしまったんでしょうか。警備部の人達もまだ発見できないようですけど」

 と、三十メートルほど離れたところに建つ廃ビルを振り向き、眺めている。

 それを合図にしたみたいなタイミングで、猫丸先輩が、

「よいこらしょっと」

 と、ねこめろんくんの頭部を外した。不気味な薄緑色の球体が取れた胴体は、もこもことした丸っこい体つきをしている。そこに猫丸先輩の小さな頭が乗っかっているのは、奇妙な姿だった。前髪をふっさりと眉の下まで垂らし、まん丸い仔猫みたいな目をした猫丸先輩は、

「あー、暑かった、着ぐるみの中ってのは本当に暑いんだよ。この季節だってのに蒸して仕方がない。まあ、頭だけでも脱げば、外気が入ってきてだいぶマシになるんだけどね。いやもう、暑くって敵かなわなかった」

 文句を云うくらいなら早く脱いでおけばいいのに、と浜岡は思うのだが、どうやら本人はねこめろんくんの格好がそれなりに気に入っていたらしい。何でもおもしろがれる人なのだ。

 猫丸先輩は、もこもこした胴体の中で何やらごそごそ動いていたかと思うと、やがて着ぐるみの喉元から片手が出てきて、口に煙草を一本くわえた。くわえ煙草の猫丸先輩は、何だかほっとしたような顔をしている。

「猫丸先輩、ここ、禁煙です」

 浜岡が注意すると、猫丸先輩は、片方の眉を大きく吊り上げて口を尖らせると、

「んなこた判ってるよ、いいか浜岡、禁煙って書いた文字を思い浮かべてみろ。何て書いてある。あれは煙を出すのを禁じるって書いてあるんだぞ。だったら煙さえ出さなきゃいい道理だ。だから僕は煙草をくわえてる。くわえてるだけなんだから、禁煙に反しちゃいないだろ。そもそもライターを没収されてるから火もつけられないしな。ただ、こうして一本くわえてないと気分が乗らないんでね」

「屁へ理り屈くつは結構ですけど、気分が乗らないって何のです? 何か乗らなくちゃいけないことでもあるんですか」

 一云えば十になって返ってくる猫丸先輩の多弁さに辟易しながら浜岡が聞くと、猫丸先輩はそれには答えず、にんまりと笑って、

「さて、浜岡も綾ちゃんも三ちゃんも袋小路に入り込んでるみたいだね。ってことでそろそろおしまいにしようや。みんながあたふたしてるのが面白くてさ、特に浜岡がバカみたいな間抜け面で困ってるのは見物だったけど、もう飽きた。ここを出ないと煙草も吸えやしないしね。ややこしいことはとっとと片付けて、外へ出て一服つけたいんだよ、僕は。あんまり遅くなって、帰りの電車が混むのも閉口するしね」

「猫丸先輩、何の話ですか、片付けるって何をです?」

 浜岡が不審に思って尋ねると、

「もちろんこの一連の騒動さね、今からそいつを解いてやるよ」

 と、くわえ煙草の猫丸先輩は、にやりと人を喰ったような笑顔になった。

「本当ですか。この謎、解けるんですか」

 と、柏さんがちょっとびっくりしたみたいに云った。無口な三本松も、疑わしそうな顔つきだ。

 猫丸先輩はこともなげに、

「簡単だよ。さあ、ささっとやっつけよう。解決編の始まり始まりだ」

 ねこめろんくんの頭部を足元に置くと、むくむくの着ぐるみの胴体のまま、両手を大きく拡ひろげてポーズを取った。

 そういえば、この人は前々からこういうのが得意だった。浜岡はそう思い出した。変わり者だから、思考回路も常人とは少々ズレていて、その素っ頓狂な頭脳でおかしなことを思いつくのだ。

 変人はもふもふの着ぐるみ姿で、愛嬌たっぷりの仕草でもって、

「まず、犯人が消えてしまった問題だけど、こいつから片付けちまおう」

 と、語り始める。

「犯人はあの廃ビルのどこにもいなかった。僕ら三人でそれは確認した。これは問題ないね、綾ちゃん」

「ええ、いませんでした」

 柏さんが答える。

「表の出入り口は浜岡が見張っていて、そこから出入りする者は誰一人としていなかった。それも確かだな、浜岡」

「間違いありません」

 浜岡も、うなずく。猫丸先輩はそのやり取りに満足したようで、

「だったら話は簡単だ。シンプルに考えよう。怪しい奴なぞ僕達は見ていない。浜岡も出入りを見ていない。それなら簡単に答えが出るだろう。そんな奴なんてどこにもいなかったんだ。誰もあの旧研究棟には近づいたりしていない。以上、これが解答だよ」

「けど、室長が目撃した白衣の男は何なんでしょう。室長の見間違いなんですか」

 柏さんが尋ねるので、浜岡も便乗して、

「それに、諸井室長が殺されかけたのも事実ですよ。犯人がいないはずがないじゃないですか」

「そうやって二人して首を伸ばして詰め寄るんじゃありません、動物園の食事時のフラミンゴの檻おりの前じゃないんだから」

 と、猫丸先輩は涼しい顔で、

「いいか、僕は怪しい奴などいなかったって云ったんだぞ。これは第三者はいないって意味だ。だから一見犯人には見えない、怪しくない者までいないとは云っていない。怪しくない者ってのは、つまりは事件の関係者のことだ。今日の騒動の場合、関係者ってのは僕達のことだな。事件の時にあの廃ビル近辺にいたのは僕らだけなんだから。要するに、犯人がいるとしたら僕らの中にいると考える他はないってことだ」

 その言葉に、ぎょっとして浜岡は周囲の顔ぶれを見回す。中にいるといっても、ここには四人しかいない。柏さん、三本松研究員、猫丸先輩、そして浜岡自身。この四人だ。この四人の中に犯人がいるというのか――不審な思いでいっぱいの浜岡に構わず、猫丸先輩は続けて、

「そう考えれば後は簡単だろ。とりあえずひとつのグループは犯人候補からごっそりと除外できる。犯行のあった時間帯、ずっと一緒にいたグループのことだよ。そう、旧研究棟探検チームだな。綾ちゃん、三ちゃん、そして僕。この三人は常に行動を共にしていた。そうだよね、綾ちゃん三ちゃん、一緒だっただろう」

「ええ」

「はい」

 柏さんと三本松が異口同音に答える。

「途中で離れて単独行動をした者もいなかったな」

 猫丸先輩の言葉に、二人はまた揃ってうなずいた。

「だから僕達三人は犯人じゃないってことだ。三人一緒にいて、犯行機会がなかったんだからな。そして残りは――」

「いや、ちょっと待ってください」

 と、浜岡は慌てて猫丸先輩を止めて、

「残りなんて一人、俺しかいないじゃありませんか」

 焦る浜岡に対して、猫丸先輩はしれっとした顔つきで、

「何を泡喰ってやがるんだよ、お前さんは、そんな仏像がポップコーンぶつけられたみたいな顔して。見苦しいからムキになるんじゃありませんよ。あのね、浜岡、僕はそうは云ってないだろう。確かにお前さんは一人で出入り口の前で張り番をしていたさ。大方、腑ふ抜ぬけみたいな気の抜けた顔で突っ立ってたんだろうけど。確かにその時なら、お前さんは一人で行動できないでもない。だけど、どうやる? どうやって犯行を成し遂げるんだ。建物の中には僕達三人、探索チームがいた。僕らがどういうフォーメーションで動いているのか、浜岡には予測できなかったはずだろう。そんな状態で僕らの目を盗んで、二階や三階に上がることはできるはずがないんだ。どこで僕達三人のうちの誰かと出喰わすかもしれないのに、うかうか建物の中に入って来られるわけがない。現に、廊下や階段は絶えず僕の監視下にあったんだしな。だから浜岡は建物内に入ることができないんだ。僕の目に触れずに侵入するのは不可能だものな。そうかといって、こっちの裏手に回ってもどうにもならない。一階の窓から忍び込んだところで、探索チームと出喰わす危険があるのは同じだし、建物の中には入らず外の地面の上で被害者を襲ったとも思えない。さっき云ったように、被害者に近寄って殴りつけるのは無理がある。バケツを振りかざしている間に、被害者に勘づかれて逃げられちまうだろうからな。そもそも建物内に入れない浜岡には、凶器のバケツを用意することができないんだ。水もバケツもあの廃ビルで調達した物だろう。他の現役研究棟からここまで、水入りバケツをえっちらおっちら運んできたんじゃ目立って仕方がない。現地調達したのは確実だ。だからあの旧研究棟の中に入らなくちゃ水もバケツも用意できない。しかし浜岡は中へは入れなかった。前もって準備しておくってのも無理筋だな。初めてこの研究所に来た浜岡には、どこに何があるか勝手が判らないはずだし、最初にここに来た時には三ちゃんに案内されて、一人になる時間もなかった。その後は僕らと一緒に行動してたんだから、どうやったってバケツと水を準備する暇なんてなかったはずだ。な、そうだろ、浜岡」

 問われて、浜岡は何度も力を込めてうなずき、

「そうですそうです、俺には犯行の機会なんてないはずです」

「うん、だから浜岡も犯人じゃない」

 猫丸先輩はこともなげに云う。

「いや、俺が犯人候補から外れるのは嬉しいですけど、そうなるとまた犯人が消えちゃいますよ。候補者が一人もいなくなってますから」

 浜岡が主張すると、猫丸先輩は火のついていない煙草を口の端でぴょこんと上向きにさせて、

「一人残ってるじゃないか、簡単なことだよ。事件関係者はあの建物に近づいた者だけだって云っただろう。旧研究棟に僕達と一緒に来た人物――ほら、一人まだ俎上そじょうに載せられていない人がいるじゃないか。もう判っただろう。そう、諸井室長、彼自身だ。そう考えるしかない。僕らは最初五人でいた。その中で、綾ちゃん、三ちゃん、僕と浜岡の四人が除外されたんだ。自然と残りは一人。諸井室長しかいない道理になる。な、シンプルでいいだろ」

「いや、でも、諸井室長は被害者ですよ」

 浜岡が云っても、猫丸先輩はどこ吹く風で、

「狂言、自作自演、一人芝居、噓八百、どうとでも云ってくれ。五人中四人が除外されたんだから、残る一人が犯人なのは自明だろう」

「でも、無理があります。自分の頭の上に水の入ったバケツを落としたっていうんですか。重いんですよ、ヘタすりゃ死にます。まさか自殺願望があったなんて話になるんじゃないでしょうね。だいたい水の入ったバケツなんて、どうやって自分の後頭部にぶつけるんですか。何か、時限装置みたいな物で自爆したわけですか」

 浜岡が云うと、横から三本松が陰気な顔つきで、

「そんな都合のいい機械は中で見つかっていません。しかし、方法は他にないとは云えないでしょう。例えば、ロープなどを使う方法です。ロープを三階の窓枠に通す。ロープの片方に水の入ったバケツの取っ手を結びつける。もう片方のロープを引いて、それを上の高さまで引き上げる。宙に浮いたバケツの真下に立ってから、ロープを手放す。そうすればバケツは自然に落下します」

「そんな仕掛けを室長がしたというんですか」

 と、浜岡は反論して、

「そんなやり方じゃロープが丸々残っちゃいますよ。本人は意識を失うかもしれないんだから、片付けることはできないんだし。後のロープの処理をどう説明つけるんですか。バケツの取っ手にロープなんて結びつけてあったら、一目で手口が判明して自作自演がバレますよ。そんな方法を使ったとは到底思えませんね。それに、打ちどころが悪かったら死んでしまうかもしれないのに、そのやり方は危険すぎます」

 すると、今度は柏さんが、ふっくらとした頰に片手を当てて、

「水の入ったバケツを自分の後頭部にぶつけるのは、思ったより難しそうですね、今のロープのやり方だと証拠隠滅ができなくなりますし、かといって道具を使わず自力でバケツを持ち上げて、頭の上で手を離したくらいでは、大したケガはしないでしょうし」

 浜岡もうなずき返しながら、

「そうですね、自分で両手を伸ばして頭上から落とした程度の衝撃じゃ、あれほど出血するようなケガはしないはずです。その方法では擦り傷すらできないと思いますね。あのケガは、やっぱりある程度の高さが必要です」

「自力では無理ですよね」

 柏さんが云うと、三本松が訥とつ々とつと、

「では、共犯者がいた、というのは? 誰か共犯の者に依頼して、上からバケツを落としてもらう」

「何云ってるんですか、そんなの無理ですよ。三本松さん達にはアリバイがあって、俺も建物の中には入れなかったはずだって、今このちっちゃい先輩が説明したばかりじゃないですか。共犯者なんていたら、今度はそいつが建物内から消えちゃったってことになって、またややこしい事態になるんですよ。三本松さんは、そんな不合理を許せるんですか」

「うう、不合理は嫌だ、許容できない。うん、理解した、共犯者の件は取り下げる。合理性のないのは不快だ」

 三本松が、陰気な調子でぼそぼそと云った。それを見てから浜岡は、

「猫丸先輩は自作自演って云いましたよね、だったら諸井室長が一人でやったわけでしょう。そうですよね、猫丸先輩」

 浜岡が確かめると、当のちっちゃい先輩は、

「そうだねえ」

 と、何やら楽しそうに、にまにまと笑っている。それを不可解そうに見ながら柏さんが、

「でも、一人でどうするんでしょう、方法がありません」

「そうですよ、水の入ったバケツなんて、どうやったら自分の頭に叩たたきつけられるっていうんですか」

 浜岡も援護すると、猫丸先輩はにまにました笑顔のままで、

「あのな、お前さん達はさっきから、水の入ったバケツ水の入ったバケツって繰り返し云ってるよね。まるで枕まくら詞ことばか何かみたいに、何度も何度も繰り返し。あのおっかない顔の警備部長さんも云ってたよな、水の入ったバケツってずっと何度も。でもな、そいつは固定観念に捕らわれすぎってもんだぞ。いいか、もっと柔軟に考えようや。水の入ったバケツをバラすと、どうなると思う? はい、浜岡」

「えっ、バラすんですか」

「そう、分解する、または別々にする」

 猫丸先輩に問いかけられて、浜岡が答えに窮していると、横から柏さんが、

「〝バケツ一杯分の水〟と〝カラのバケツ〟ですね」

「そう、その通り、さすが綾ちゃんは吞み込みが早いね、どっかのでくの坊とは大違いだ。それでいい、百点満点の解答だよ」

「でも、〝カラのバケツ〟なんてどうするんですか。凶器には重さが必要ですよ。水を満たさないとバケツに重みは出ません」

 でくの坊呼ばわりされた浜岡が反論すると、相手はしれっとそれを無視して、

「そんなこたどうでもいいんだよ。なあ、浜岡、お前さんが見たのは何だったんだ。事件を発見した時の現場で、室長が倒れている以外、お前さんは何を見た?」

「地面に水がぶちまけられていて、カラのバケツが転がっていました」

「ほら見ろ、そのまんまじゃないか。それでいいんだよ。元々は水が入っていたかもしれないけど、水を地面にぶちまけたら後に残るのはカラのバケツだ。こいつは軽いし、扱いも楽だな。これを上へ放り投げておいて、落下予測地点に後頭部を差し出す。お辞儀するみたいな要領でな。こんなのはちょっとした度胸がありゃできるだろう。水が入ったままで重量のあるバケツだったら、ヘタすりゃ命を落としかねないから、自殺レベルの蛮勇が必要だろうよ。でもカラのバケツなら多少痛い程度だ。バンジージャンプを飛ぶくらいの気構えがありゃ誰にだってできるだろう。肝が据わらずについ頭を引っ込めちまったりして失敗しても、もう一遍トライできるのもこの方法のいいところだな。このやり口ならば、不意を突かれて頭に水入りバケツを落とされた被害者をでっち上げることができる。とにかく頭にコブのひとつもできりゃ、発見者が勝手に解釈して水の入ったバケツが落下してきたものとカン違いしてくれるって寸法さね。これはそういう作戦だったんだよ。今回はたまたま当たりどころがよくて、バケツの底のフチの部分が後頭部の皮膚を削そぐみたいな形でぶつかったんだろうな。それでざっくりと表皮が切れて、出血も派手だったわけだ。計算外の成果だったんだろうね。それを見たどっかのうっかり早とちり野郎がすっかり慌てて、狂言の奸かん計けいに嵌まったってわけさ。ぶちまけられた水と転がったバケツを見て、水の入ったバケツが上から落ちてきたと、そのうっかり野郎は信じ込んじまった。第一発見者のその言葉に影響されて、他の皆もそう思い込まされたってだけのことだな」

 まさかそんなくだらない手口だったなんて、と浜岡は愕がく然ぜんとしてしまった。言葉を失い、何も云う気が起きない。そんな子供騙だましにうかうかと乗せられてしまったのか。これではうっかり野郎と揶や揄ゆされても言い訳すらできない。己の注意力不足が情けない。

「一人芝居の段取りは大方こんなところだと僕は思う」

 と、猫丸先輩は打ちひしがれている浜岡を気にも留めずに続けて云う。

「現場での狂言の前段階として、室長はこんな仕込みをしたんだろうな。まず、浜岡を送り出す口実であの旧研究棟の近くに僕らを誘い出す。回り道をしようと提案して僕達をこっちの方へ連れてきたのは他ならぬ室長だったのを皆も覚えているだろう。あれは、後で発見者や証人になってくれる者を用意したわけだな。四人もいれば目撃者としては充分だろう。どう考えても全然無関係で、胡う散さん臭くさいねこめろんくんの扮装をした僕まで同行を黙認したのは、部外者がいた方が目撃証言にリアリティが出るからだろうね。そして、怪しい人影を見たと云って、あの廃ビル前までやって来る。他の誰も見ていないんだから、そんな奴は最初からいなかったんだな。狂言の第一幕はここから始まったわけだ」

 猫丸先輩は上機嫌そうに語っている。

「それから室長は一人で建物の裏側に回って行った。水を汲んだバケツはあらかじめ、一階のどこかの部屋の中の窓際にでも用意してあったんだろう。これは午前中にでも仕込んでおいたのかもしれないな。そして外から窓の中へ上半身を乗り出して、水入りバケツを回収する。後のことはさっきも云った通りだ。バケツの水を地面にぶちまける。カラのバケツを上に放って頭にガツンとやる。これで被害者のフリができるって按配だ。後はその場に倒れ伏し、気絶したお芝居で僕達が様子を見に来るのを待つだけだ。戻って来るのがあんまり遅かったら、表側に待機していた僕らが不審に思うのも織り込み済みだな。実際、浜岡はその通りに行動している」

「ええと、それじゃ、猫丸先輩、あの五百円玉は何だったんですか。室長が握り込んでいた五百円玉」

 おずおずと浜岡が尋ねると、猫丸先輩はあっさりと、

「ダミーに決まってるだろう。どっかの早とちりのドジ野郎が、落下位置を特定するためのマーカーだとか何とか云い出すのを先読みして、握っていただけの話だ」

 ありゃ、やっぱりそうか。浜岡はがっくりしてしまう。汗顔の至りとはこのことだ。さっき物凄くしたり顔でマーカー説を披露してしまった。柏さんにいいところを見せようとして、得意満面でカッコつけた。まんまと罠わなに嵌まっただけなのに、鼻高々で語ってしまった。今となってはこの上なく恥ずかしい。

「そうして倒れていれば、僕達が発見者になってくれる。そういう段取りだったはずなんだ。けど、僕が要らんことを提案したせいで、この目もく論ろ見みは崩れて事態がややこしくなっちまったわけだね」

 猫丸先輩が云うと、柏さんが呼応して、

「建物内の探索、ですね」

「そう、こいつは室長にとって計算外のことだった。全員がおとなしく出入り口付近で待っていてくれた方が都合がよかった。誰か一人が発見しても、その人はもちろん、大変だみんな来てくれと全員を呼び集めるだろう。事件があれば、すわ何事かと皆がそこへ集結するのは自然な成り行きだからな。そうすれば僕達全員が、揃って建物の裏へ回って駆けつけて来る。これで表の出入り口の前には、誰もいない時間ができる。バケツを落下させた犯人は、この空白の時間帯に出口から建物外へ逃走した。とそういう脚本だったんだろうな、元々は」

「けれども、ねこめろんくんが探索を提案してしまった」

 と、柏さんが云い、猫丸先輩はそれに応じて、

「そう、室長にとっては余計なことにね。これで僕と綾ちゃんと三ちゃんの三人が旧研究棟の中へ入ってしまった。そのせいで建物の中には誰もいないこと、あまつさえ逃走経路までないことが証明されちまったんだ。こりゃ室長にとっては予想外だな。室長の意図と異なり、犯人が消失するという怪現象が発生しちまったわけだから。本来ならば単純に、出口から逃げたのだろうと推定されたはずなのに、僕が面白半分に要らんことを提案したばっかりに、こんな変テコな状況になったってわけなんだ」

 消えた犯人という謎も、解けてみればこんなバカげた真相だったんだな、と浜岡は半ば感心しつつも呆れていた。犯人が仕組んだトリックというわけでもなく、偶然そうなっただけなのに、犯人が消えた消えたと大騒ぎをしていたのだから、おめでたいというかくだらないというか。空騒ぎを演じたこっちがいい面の皮である。

 浜岡がげんなりした気分になっていると、柏さんがふっくらとした頰に指を当てて、

「室長が自作自演したというのは腑に落ちました。犯人消失の真相はそれしかなさそうですから。でも、ねこめろんくん、どうして室長はこんな手間のかかることをしたんでしょう。わざわざ面倒な一人芝居までやって見せたその理由、それが判りません」

「うん、それなんだけどねえ」

 と、猫丸先輩は、どうしたわけか浜岡の顔を横目で見てから、にんまりと人の悪そうな笑みを浮かべて、

「理由はひとつしか考えられないと思うんだ。そこで質問だけど、今日は室長率いる第六研究室にとっては、いつもと違う特別な日だったはずだよね、なあ、三ちゃん、何の日だっけ?」

「本社の使者にデータを渡す日。五年間の研究成果を」

 ぼそぼそとした口調で三本松が答えると、猫丸先輩は満足げに、

「そう、だから理由はそれに絡んだことと考えるのが一番自然だ。他でもない今日という日を選んで狂言を実行したんだからな。というわけで、浜岡、チップを出しな、例のデータの入ってるチップ」

「え、でも――」

「いいから出しなさいって。ごちゃごちゃ云うんじゃありません。今さら躊躇してどうするよ」

 猫丸先輩は有無を云わせない。

 仕方なく浜岡は、スーツの内ポケットから渋々と、プラスチックのケースを取り出した。黒い、カード状のケースだ。

「開けてみろよ、この際だから遠慮するな」

 猫丸先輩に云われ、浜岡はケースの一面をスライドさせた。中には――何もなかった。カラっぽだ。何も入っていない。そんなバカな、ICチップはどこへいった?

 呆ぼう然ぜんとする浜岡をよそに、猫丸先輩は肩をすくめて、

「ほらな、そんなこったろうと思ったんだ。やっぱり想像した通りだったよ」

「ど、どういうことですか、今度はチップが消えちゃいましたよ、何なんですか、これは、どうしてこんなことになってるんですか」

「そうエサをねだるカバみたいにすがりついてくるんじゃありませんよ、浜岡は、重いよ。何をおたおたしてやがるんだか、この節穴男めが。あのな、お前さんが後生大事にしまっておいたケースの中身が消えるわけがないだろうに。肌身離さず持っていたんだからさ。途中で中身だけが消失するはずなんてないんだから、こいつは最初っから入ってなかったって考えるしかあるまい」

 と、猫丸先輩は浜岡の訴えを軽くいなすと、

「いいか、ここの研究所の警備はことのほか厳重だ。外来者の僕達はもちろん、働いている研究者の人達も毎日身体検査をさせられるそうじゃないか。さっきの警備部長さんも云ってたけど、機密事項をたくさん扱う開発部門だから、厳しいのもまあ仕方ないんだろう。しかしな、もしここに厳重な警備をかいくぐって何らかのデータを持ち出したいと企てた者がいたらどうすると思う? 通常の時じゃ警備がキツいんだから、なかなか難しいだろう。だったらそれこそ、非常事態を作ればいい道理だとは思わないか。例えば、救急車とか、だな。頭を負傷して意識を失っている人がいたら、それは何を置いても病院に送り届けるのが先決になるだろう。その救急搬送の際、さすがに身体検査まではしないはずだ。急を要する怪け我が人だ、ましてや頭に傷があって出血もしている。もたもたしてたら命に関わる。これなら厳重な警備をかわす抜け道になるだろう。データチップを靴下の中にでも隠しておけば、救急車に乗って外へ持ち出せる」

 ああ、そのためにケガをした芝居を見せる必要があったのか、と浜岡は改めて得心した。狂言は、データチップを極秘裏にここから持ち出すための方策だったのだ。

「おまけに本社からの使者が東京に戻ってデータを取り出そうとしたら、中身はカラっぽだ。当然、怪しく思われるのはその使いの者だな」

「えっ、俺ですかっ」

 浜岡は飛び上がらんばかりに驚いた。猫丸先輩はさらりと云ってくれたが、俺まで計画の中に組み込まれていたのか――。

「研究所では第六研の室長が襲われて負傷する事件が起きた。その混乱の中、本社の使者がデータを紛失した。そう思わせるのがこの作戦の一環だな。実は元よりケースの中身はカラっぽなんだけれどね。第六研究室の室長室で渡された時、つまり最初からカラだったわけだけど、本社のお偉いさんからしたら、使者の若僧が紛失したように見えるってわけだ。室長は、その本社の若僧に罪を被せようとしたんだな。ケガをした当人はまんまと救急車でデータを持ち出せる。これはそんな一石二鳥の企みだったんだよ」

「そんなことされたら、俺が大切なデータを紛失した大間抜けになりますよ」

 浜岡が泣き言を云うと、猫丸先輩はいかにも楽しげな笑い顔で、

「それどころか、お前さん、スパイの片棒担いだと疑われてたかもしれないんだぞ。むしろそっちの方がこの計画の本命の線じゃないかと、僕は睨んでるんだけどね。傷害事件が発見されれば救急車を呼んだり警備隊が右往左往したり、場合によっては警察の連中が大挙して押し寄せたり、と大混乱になるのは必定。そのごたごたに紛れて、本社から来たスパイが、例の目撃された怪しい人物にデータの中身を渡した。そう思わせるのがこの計略の眼目だな。いくらお前さんが潔白を主張しようと、実際にそのケースの中がカラっぽなんだからこれ以上の証拠はないだろう。真犯人の室長は絶対にチップを入れたと証言するだろうし、中身がカラなのは動かしようのない事実なんだしな。つまり浜岡は最初からスケープゴートにされる予定だったんだよ。大間抜けどころかスパイに仕立て上げられた可能性が大きかったんだ」

「そんな――」

 浜岡は血の気が引くのを感じていた。スパイの一味のレッテルを貼られたらサラリーマンとして終わりだ。いや、それどころか犯罪者になってしまうではないか。それはあんまりだ。ひどすぎる。

 再びにんまりと笑って猫丸先輩は、くわえ煙草のまま、球体のねこめろんくんの頭部を持ち上げると、

「よっこらせっ」

 と、頭に被った。

 それを見ながら柏さんが口を開いて、

「でも、データを持ち出して室長はどうするつもりなんでしょうか」

「まあ大方、売っ払うんだろうね」

 と、ねこめろんくんの球体の中で、猫丸先輩はくぐもった声で、

「室長も報酬面で会社に対して不満を募らせていたのかもしれない。ほら、前にニュースになったのがあったじゃないか、青い電球を発明した人が会社を相手取って裁判起こした一件。あれと同じようにさ」

 猫丸先輩の云っているのは多分、青色発光ダイオード訴訟のことだろう。機械や電気関連のことに関しては小学生レベルで疎い人だから、うろ覚えなのだろうけど、あれは企業に属する研究者がその特許権が個人にあると主張して訴訟に発展したものだった。

「技術者の頭脳流出が社会問題になっているってのも聞いたことがあるな。優秀な研究者が、国内の企業の待遇の悪さに見切りをつけて、海外に渡っちまうそうじゃないか」

 猫丸先輩が云うと、柏さんがうなずき、

「ええ、そうですね、私の大学の知り合いにも外国で就職した人が何人かいます」

 三本松もその隣で神妙な顔になっている。研究者の一人として、彼にも何か思うところがあるのかもしれない。

「今回の第六研の研究も、多額の儲もうけが出るんだろう」

 猫丸先輩の言葉に、浜岡は無言でうなずいた。課長の話によると、NASAが数億ドル出すとかいう噂も飛び交っているという。それに対して、開発チームのボーナスは雀すずめの涙だと、柏さんが云っていた。

「苦心して開発しても手柄は会社のもので、個人には大した褒美は無しだ。外国で特許でも取れば億万長者にもなれるかもしれないのに、会社からの報酬はたかがしれてるっていうんだから、こりゃ室長がデータをこっそりライバル社にでも売り捌こうって考えても、あながちおかしくもないだろう」

 ねこめろんくんの内部の猫丸先輩の云うことに、柏さんは静かに首を左右に振りながら、

「確かにそうですね、諸外国に比べて国内での研究者の地位は不当に低いと、私みたいな下っぱでも感じることもありますから。室長クラスならもっと不満が蓄積していたのかもしれません」

 そう云って、ため息をついた。直属の上司の暴走を悔しく感じているのかもしれない。

 三本松も、ぼさぼさの頭を片手で搔いて、何か云いたげにしている。

 猫丸先輩は、そんな二人に向かって、

「もっと大金がもらえてもバチは当たらないんじゃないかって思うのが人情ってもんだろうしね、そいつは部外者の僕にでも少し判る気がする。まあ、何とも散文的でありきたりな動機だけど、結局は誰でも金がほしいんだな。なあ、浜岡よ、僕のこの着ぐるみと同じだろ。着ぐるみを着ていれば、外から見ただけじゃ中身が誰かは判らない。僕が頭突きを喰らわせた時には、まさか中に僕が入っていようとはお前さんも予想だにしなかっただろう。それと同じで、諸井室長も外見はこの研究所に所属する第六研究室の責任者として働く研究者だけど、中身はその辺の犯罪者と同じで金がほしい人だったわけなんだ。研究室長という着ぐるみを脱いだら、中身はただのありきたな、欲望に忠実なだけの人だったんだ。どうしてそんなに金が必要だったかまでは僕は知らないけどね。まあ、そのお陰で、どっかの誰かさんがスパイの濡ぬれ衣ぎぬ着せられそうになるという大層愉快な展開を見られたから、僕は楽しかったけど。間抜け面さらしてカラっぽのケースを後生大事に保管した挙げ句、産業スパイの手先の汚名を着せられかけてるんだから、こりゃ笑いが止まらんわな」

 多分、猫丸先輩は、ねこめろんくんの頭部の中で、嬉しそうににんまりと笑っていることだろう。おかしくてたまらないというふうに、にまにましているに違いない。

「さて、これで全部片付いた。室長の持ち出したデータは恐らくまだ病院にあると思うぞ。ライバル社の本物の産業スパイと受け渡しがあるとしたら、そいつは多分夜中になってからだ。周囲に人がいなくなって、人目につかないようになってから、こっそり取り引きするんだろうからね。今はまだ、警備員の人が一人、病院に付き添ってるはずだろう。だからあの怖い顔した警備部長に進言して、室長の衣服を調べさせるといい。きっとチップが見つかると思う。それで事件は解決、見事終幕千秋楽だ」

「行ってきます」

 と、三本松がぼそりと云って、芝生の上を駆け出して行った。ひょろひょろの体格に似合わない、びっくりするほど早い駆け足だった。何だ、機敏に動けるんじゃないか、と浜岡は少し意外に思いながら、それを見ていた。

 ねこめろんくんを被った猫丸先輩も、駆けて行く三本松の後ろ姿を見送っている。

 柏さんが、そんなねこめろんくんを尊敬の眼差しで見つめているのが、大いに面白くない浜岡だった。いや、それよりもっと面白くないことがある。

 猫丸先輩がいなかったら、今頃俺はスパイの仲間と疑われていたかもしれないのだ。

 それを猫丸先輩は口八丁の言葉だけで、きれいさっぱり晴らしてくれた。これは大きな借りを作ってしまったことになる。

 この傍若無人な先輩に借りを作ることがどんなに面倒なことか、短くない付き合いで浜岡は嫌というほど承知している。後でそれを楯たてにして、どんな無理難題を押しつけられることか、判ったものではない。

 きっと猫丸先輩本人もそれに気づいている。浜岡に大きな貸しができたことを。それでさっきから必要以上に、にんまりと笑っていたのだ。嬉しくてたまらないというふうに。きっとその邪悪な笑みを見られないように、わざわざねこめろんくんを被り直し、顔を隠したに違いない。

 ああ、もう、助かったんだか迷惑なんだか、一難去ってまた一難ってこういう時に使うんだっけ――こんがらがってきて、浜岡は傍らのねこめろんくんを横目で見ながら嘆息するばかり。

 猫丸先輩の着た首の座っていない着ぐるみは、相も変わらずその球体頭を左右にふらふらと、いつまでも揺らせていた。