『姫と呼ぶ』
絹川範子(きぬかわ のりこ)は心の中で冴羽雪(さえば ゆき)を姫と呼ぶ。
雪は名に恥じぬ白い肌の少女で、長い髪を額の真ん中で分けている。目鼻だちは小づくりで繊細、触ると溶けていきそうなはかなさがあった。
雪とは高校の空き教室で初めて会った。
範子は裁縫店をやっており、学校に裁縫道具や布などの教材をおさめている。今日も段ボールを二個ほど台車に載せて、午前十時に家庭科の準備室に行くと、頬の垂れ下がった中年の女教師が、「いつものところに置いてって」と雑に指示した。台車を押し、棟一階の隅にある空き教室に向かう。普通教室の半分ほどの広さの選択教室が、倉庫の代わりになっている。廊下は薄暗く、生き物が腐ったような臭いがし、廃校舎のようだ。少子化のせいかクラスが減り、選択授業も削られて、学校には空き部屋が増えるばかりだという。
範子は女が好きだった。
授業中に来てしまったので生徒を見かけないのが残念だ。
疲れた女教師に興味はないが活きのいい女子高生には会いたい。裁縫店を営んでいるのも、客の大半が女性だからだ。男に興味はない。汚いからだ。十代の頃に、そこそこの顔の男とつきあったことがあるが、晩になるとタワシのような髭が伸びてきて、心底うんざりした。
空き教室のドアを静かに開ける。
地下室のように薄暗く、天井の隅には蜘蛛の巣が張っていた。鼻に籠る強い埃の臭いが充満している。左側には段ボールの箱が、床や机に山と積まれ、細かなゴミが四散していた。段ボール箱の蓋を止めたガムテープは黄ばみ、粘着力を失って浮いている。右側には一面にガラス棚があるが、ガラスが曇って中は見えない。
ガラス棚の前に置かれた二体のマネキンが、妙に不気味に映った。一体は等身大で素材は木材なのか、焦げ茶色の表面に木目が走っている。木でできた目鼻立ちのない人間が両手を広げ、気取ったポーズをとっていた。もう一体の洋裁用トルソーは、蛮族によって支柱に串刺しにされた胴体のようだ。
マネキンという言葉は日本で作られたという。フランス語のマヌカン(マヌキャン)は“モデル“を、オランダ語の同語は“小人“を意味するらしいが、等身大のマネキンの指の示す先に、一人の少女がいた。
授業中、空き教室に生徒がいるはずがない。
室内には六人用の大きな黒い机が六つ、二列に並んでいた。少女は窓側の一番前の机の上に仰向けになって寝ている。手足を少し広げ、見開いた目で天井を見ていた。白いブラウスにチェックのスカートだ。黒い机に、艶やかな烏羽色の長い髪が扇形に広がっている。顔に目を遣り、思わず息を呑む。小づくりだが鼻筋がすっきりと通り、薄い唇も花びらのようだ。少女は横臥(おうが)したまま、人形のように動かなかった。
台車を押して部屋に入り、後ろ手で静かに引き戸を閉める。その場で「授業中ですよね。何をしているんですか」と遠慮がちに声を掛けると、「誰なの」と鋭く返された。澄んだ声に狼狽し、「わ、私は絹川です」と答えてしまう。
「名前は」
「範子です」
「どっかで見た顔ね。学校に出入りしている業者さんなの」
「近くで裁縫店をやっています」
少女は「絹川裁縫店ね。知ってる」と独り言のようにつぶやいてから、いきなり「鍵を掛けて」と命じる。「ドアに鍵が付いてるでしょ。つまみを下げてロックして」いいなりになって範子は施錠し、再び、何をしているのか訊く。
彼女は可憐な、楽器めいた声で答えた。
「不死の力を得ようとしているのよ、放っておいて」
一瞬、フシが不死と結びつかなかった。奇矯な言葉に首を傾げ、静かに近づくと、彼女が寝ている黒い机の上には魔法陣のような、悪魔の紋章のようなものがチョークで描かれている。範子は少女の頭から足の方へゆっくりと移動した。白いブラウスを着た体の線は直線的で堅いが、幼いヴィーナスの彫像の周りを歩いているような感じがした。彼女のつま先の方に立ち、端正な顔に目を遣る。細い顎のラインがくっきりと浮かんでいた。視線を下に移すと、膝下くらいあるスカートから、弾力ある太腿の内側が見え、奥に白いショーツがわずかにのぞいている。
範子はショーツの白から目を離さずに、「授業をさぼっておかしな儀式をしているわけですね。魔力でも借りて、死なない体になるつもりなのですか。あなたのお名前は」と質問する。少女は視線すら動かさず、「私は雪、冴羽雪。別に覚えなくてもいいわよ」と言葉を投げた。不良という感じでもないが、変わった子であることは確かで、かまってみたいくなった。何といっても、きれいなのだ。
話しかけると、思ったよりも応えてくれる。
魔法陣のような模様や、不死の儀式については何も教えてくれなかったが、さまよえるオランダ人やサン・ジェルマン伯爵、八百比丘尼などについては熱心に語った。
「不死の人は尽きない寿命を持っているから」雪は範子に目も向けず、「普通に暮らしていれば永遠に生きられる。でも刺されたら、殴られたら、銃に撃たれたら、どうかしら。普通なら死ぬような暴行を受けた場合どうなるのかな。そのまま死ぬのか、死なないのか。永遠の命を持っている以上、一度死んでも再生復活してくるのか。甦る場合、不死というより不死身という感じだけど、おばさんはどう思う」
範子は論点をややずらして、八百比丘尼は自分から死を望んで岩屋に入り、入滅したみたいですね、と返答した。
「知ってるよ。でも不死なのに自死できるなんて、矛盾してない」
雪は空想癖の強い少女らしい。この年代の子は、不死になる可能性など本当は信じていなくても、怪しげな魔導書に倣い、授業を抜けて儀式を行うこともあるだろう。授業終了のチャイムが鳴ったので、範子は雪を残して退散する。
夜、範子は久しぶりに自慰をした。少女の細面を思い描きながら、夢想の中で極めてゆっくりと雪をなぶりものにし、己を指で慰める。心では冴羽雪を姫と呼んでいた。雪は私の白雪姫なのだ。私は彼女にとって、七人の小人の一人ほどの存在感もないだろうが、雪こそは私の、私だけの、心を震わすお姫様だった。雪は私のものだ。範子は行為を終えると満足し、深い眠りに落ちた。
翌日の夕方、店に意外な客が来た。
学校帰りの冴羽雪が寄ったのだ。「おばさん、来てみたよ。意外といい店じゃない」雪の後ろについて店内を回る。身長は範子より高く、すんなりしていた。ビーズやカットクロスを熱心に見ていたが、買う気はないらしい。三十分も引きずり回してから、雪は羊毛フェルトのコーナーへと進む。水平の台にブルーグリーンやピスタチオ、モスグリーンといった鮮やかな羊毛フェルトが所狭しと置かれている。
今日の雪は長い髪をまとめ、前の方に垂らしていた。細く白いうなじを見つめていると、雪は背中を向けたまま、問いかけてくる。
「おばさん、サッフォーでしょ」
一瞬、返答に窮した。彼女は薄く笑って、「サッフォーまたはサッポー、ギリシアの詩人よ。知らないの。少女への愛の詩を多く残したから同性愛者だったといわれてる。おばさんもレズビアンでしょ」
「姫さ……いいえ雪ちゃん、私はそんな」
「とぼけなくてもいいんだよ。女が女を好きになるなんて当たり前じゃん」
彼女は澄んだ声で詩を口ずさむ。
今度は誰なのサッフォー お前を恋するよう仕向けるのは
お前を傷つけるのは誰なの
少女が逃げているのなら、追うでしょう
贈り物を拒むなら、自ら贈るようになるでしょう
恋していないなら、恋するようになるでしょう
たとえそれを望んでいなくても
「サッフォーの詩の意訳よ」
雪は振り向き、視線を真っすぐに向けながら羊毛フェルトの上に座った。売り物を布団にして、脚を組む。露出した肉体の曲線に、目が釘付けになった。
「おばさん、やらしいよ。セクシャルな視線が隠せていない。さかりの付いた同級生の男子だってそんな目はしないよ。でも気にすることはないんだ。私も女のほうが好きだもん。類は友を呼ぶ。年上は初めてだけど、おつきあいしてもいいよ。その気になったら、学校においでよ。一週間後、昨日と同じ教室で、同じ時間に待ってるから」
雪はけたたましく笑い、羊毛フェルトをまき散らして帰っていった。
その夜、姫の顔が、体が頭にちらつき、範子は眠れなかった。売り物に対するひどい扱いは許しがたいけれども、“学校においで“と誘われたことも確かだ。変人の少女からかわれただけかもしれないが、永遠の恋人が手に入らないとも限らない。
サッフォーなら知っていた。紀元前六世紀頃のギリシアの詩人で、その詩には同性愛の表現が含まれていたらしい。一説によるとレスボス島に生まれたとされ、ここからレズビアンという言葉が発生した。レズビアンはレスボスの女の意である。ギリシア全土の子女が彼女を訪ね、音楽や詩を教わった。画家ギュスターヴ・モローは、自殺したこの詩人を何枚も描いたが、範子のお気に入りは、崖から落ちている瞬間を描いた油彩画だった。画中の、首をのけぞらせた女の横顔がなまめかしい。だが、サッフォーが岸壁から身を投げた理由が気に食わない。青年に失恋したからだというが、何故相手が女ではないのだろう。
絹川範子は次の日から、生徒でもないのに学校に通うようになった。
一週間が待ちきれなかったのだ。
用がなくとも勝手な時間に校舎に入ってしまう。学校というのはガードが緩く、侵入しようと思えば入れる場所はいくらでもある。極端な話、生徒玄関から堂々と入っても大丈夫なのだ。己の地味で堅実、平凡で真面目そうな容姿に感謝する。
廊下などで職員とすれ違っても咎められることはまずなかった。かえって「お疲れ様です」と挨拶されるくらいである。例えば地味なエプロンを付けるだけで、教師にも生徒にも怪しまれない。何度か潜入するうち、誰に見つかっても何とでも言いのがれできるという自信を得た。もともと家庭科の職員には馴染みの業者でもある。例の空き教室に行くことも度々あったが、当然ながら雪には会えなかった。
下校時を見張ったこともある。登校しているなら必ず見つけられるはずだ。雪は部活をしていないらしく、学校が終わると早々に出てきた。後を付け、自宅を確認すると、案外近所に住んでいる。範子は自分が異常な行為に及んでいる自覚はあったが、止めることはできなかった。私の姫なのだ。私のものなら何をしてもいいはずではないか。
瞬く間に一週間が過ぎた。
前回と同じ午前十時、学校に侵入する。誰にも見られていない。真っ直ぐに空き教室へ向かった。雨の降る、暗い日だった。教室のプレートを見ると第二被服室とある。今は第一被服室しか使っていないのだろう。
ドアに手を掛けて、止める。中から人の気配がした。ドアに横顔を付け、耳を澄ます。低い声と高い声が聞こえる。男女がいるようだ。引き戸を細く開いて覗く。
薄暗い室内に男女の生徒がいた。白いブラウスを着ているのは冴羽雪だ。窓の方を向き、この前は寝ていた机に、男と並んで掛けている。男子生徒は青いジャージを着ていた。横にいる雪をじっと見つめながら話しかけている。野卑(やひ)な感じの、太いゴボウのような男子だ。彼は左手を上げ、無造作に雪の右肩に置く。範子は自分が触られたかのようにぞっとした。
雪も男子の方を向く。しかし目はこちらを見ていた。一瞬範子と視線が合ったような気がする。雪は私が来たことを知った、と範子は確信した。
その瞬間、雪の細い両腕が男の首に巻き付いた。高くて甘い声が静寂(しじま)に響く。
「キスして、絹川」
心臓が止まるかと思った。少女は口づけをせがんでおり、呼ばれたのは範子の苗字なのだ。
男が、俺は絹川じゃねえと否定する。
「何だっていいの。あなたは絹川よ。キスしてよ絹川」
あてこすりだ。雪は、範子が何もできないことを知っていて挑発している。範子の血液が煮えたぎり、体の中心が焼けるように疼き始めた。身体の震えが止められない。一途な気持ちが踏みにじられ、もてあそばれている。
男は、変な女だぜ、と口走り、乱暴に少女の唇を奪った。舌を差し込み、少女の口内を掻き回す。二人の唇が離れる時、粘つく液体が糸を引いた。
範子は吐き気を催す。ひどいものを見せられている。下品な男が雪の恋人とは思えない。少女はおそらく、範子をからかうために——それだけのために、誰でもいいから男子を引っ張りこんでキスをしている。あんまりだ。憎い。ぶっ殺したい。
雪は少年に向かって、「ヤニ臭い息は嫌い。煙草なんて体によくないよ」と甘ったれた口調で諭す。彼にはやけ、雪の膝に手を伸ばした。じゃあさ、体にいいことしようぜ。学校でヤルのって最高だぜ。
ドアを閉めた。歩き出す。見ていられない。侮辱された。汚された。踏みにじられた。自然と急ぎ足になる。雪はひどい女だ。最低だ。悪魔だ。屑だ。下種だ。淫乱だ。前から眼鏡を掛けた教師らしき男が歩いてくる。無視した。相手は彼女を見もせず、通りすがりに顎を引いただけだった。
雪の不良め。とんでもない売女だ。しかし……しかしきれいだ。放ってはおけない美しさだ。姫だ。私の姫様なのだ。白雪姫は七人の小人に、下僕と交わる姿を見せようとした。よくごらん。私の姿を、ふるまいを。さぞかしうらやましからろうね。お前ら小人など、私に手が届くはずがない。その小さい体では、私を楽しませることなど、絶対にできはしないのだから。
雨の中に転び出た。全身がずぶ濡れだが、かまわない。かえっていい。溢れる涙が雨に紛れる。
彼女はその足でホームセンターへ行った。出刃包丁、金づち、細いロープなど凶器になりそうなものを手当たり次第買う。重い買い物袋を抱えて裁縫店に帰った時、傘を忘れたことに気づいた。生徒玄関にある共同傘立てに差したままだ。戻る気にはならない。あんな学校、二度と行くものか。発注されても断ってやる。数年前のイベントで作った裁縫店特注の傘だったが、放っておいても問題あるまい。傘立てには何年も置きっぱなしのような痛んだ物もかなりあった。
あいにく客入りのない日だった。彼女は気を紛らわすこともできず、空想の中で何度も冴羽雪——私の姫を殺した。思えば白雪姫は一種の不死者の物語だ。本によってストーリーも違うが、おおよそはこんな話だ。
白雪姫の実母(か継母?)の王妃は魔法の鏡に訊く。「世界で一番美しいのは誰」すると鏡は常に「王妃様」と答えた。
姫が七歳になった日、王妃が鏡に「世界で一番美しいのは」と訊ねると、「白雪姫」との答えが返った。「お妃様、あなたがここでは一番美しい。けれど白雪姫はあなたの千倍も美しい」王妃は怒り、狩人を呼び、「姫を殺し、証拠として彼女の臓器(肺と肝臓?心臓?)を取ってこい」と命じる。しかし狩人には殺人が犯せず、姫を森に置き去りにし、王妃には猪の臓器を渡す。王妃はその心臓か、肺と肝臓を塩茹にして食べた。
森に残された姫は七人の小人と出会う。一方、王妃が魔法の鏡にいつもの質問をすると、未だに「白雪姫」との答えが返る。姫はまだ生きているのだ。王妃は自ら物売りに化け、姫を訪ね、腰紐を売りつけると見せかけて、絞め殺す。
小人たちは事切れた姫に驚き、腰紐を切って、息を吹き返させる。王妃はまた世界一の美女を鏡に尋ねるが、答えは変わらない。王妃は毒付きの櫛を作り、再度物売りに扮して姫を訪ねる。姫は毒入りの櫛で梳かれるか、あるいは櫛を突き刺され、倒れた。今度こそ成し遂げたと思った王妃だが、姫は小人たちに救われており、鏡の答えは同じだ。王妃は、毒入りのリンゴを作り、リンゴ売りに扮して姫に挑む。姫はリンゴを齧り息絶えた。
小人たちはあらゆる手を尽くすが無駄だった。ガラスの棺に入れた姫を、たまたま見得た王子が、死体でもいいからと姫をもらい受ける。棺をかついでいた王子の家来がつまずき、棺が揺れた。あるいは家来が姫の背中をどんと叩く。すると姫の喉に詰まっていたリンゴが飛び出し、生き返る。蘇生した白雪姫を、王子は妻とした。結婚式で、王妃は赤く焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊り続ける。
改めて考えると、姫のものと信じる臓器を食らい、自らの手で殺人を繰り返す王妃は凄まじい。死にざまも壮絶だ。美女の死体が欲しいといい出す王子もなかなかのゴスものである。白雪姫に至っては不死身であり、絞殺、おそらくは刺殺、毒殺、といかなる手段をとっても生き返る。常に殺人未遂に終わる、ということなのだろうが、一旦死んで蘇ってくるかのごとくだ。姫は不死の人なのかもしれない。
埒もないことを考えているうちに日が暮れた。ガラスドアが開き、今日一人目の客が入ってくる。
途端に範子は目を剥いた。「おばさん、こんばんは」と明るく挨拶したのは、冴羽雪だったのだ。
「よくも来られたものですね。この恥知らず」
「ずいぶんね。せっかく傘を持ってきてあげたのに。おばさん忘れていったでしょ。今日は私、傘を持ってこなかったんだ。登校時は曇りだったからね。帰りに生徒玄関で、誰のでもいいから使おうと手にしたこれだった」傘には“絹川裁縫店”のロゴが入っている。「おかげでここまで濡れずにすんだよ。ありがと」
雪は巻いた傘を返そうと、手元を向けて差し出す。範子が受け取ろうとすると、急に傘を突き出した。尖った石突きが目に迫る。全力で避けた。目を潰されるところだった。
「何するんですか」
「怒ったの。からかいがいのある奴」彼女は濡れた傘を開き、回転させながら振り回して、雫を商品中に振りかけた。「おばさんの店なんて何をやってもいいんだ。だって絹川紀子は学校に不法侵入する変質者だもん。犯罪者に何をやっても許されるんだよ」
「く、屑が」
レジ下に放っておいた買い物袋から凶器を一つ手に取る。何でもよかったが、ロープをつかんでいた。雪の可憐な顔はまだ笑っている。「あらおばさん。何をするの。まさか私を殺そうっていうんじゃないでしょうね」範子は、雪の細く長い首に白いロープを巻く。少女は抵抗しない。挑発するように顎を逸らす。「無駄よ。私は不死、悪魔の力で不死身の力を得た。儀式を見たはず。おばさんには殺せないよ」範子は入念に首に二重に巻きつけ、締める。雪はぽかんとした顔をしていたが、やがて壮絶に暴れ始めた。範子は顔を掻きむしられ、目を開けていることができない。それでも相手の力が緩むまで力をこめ続ける。少女がおとなしくなるのに、十分以上を要した。
床の上に雪は、眠るように横たわっている。
顔も体も無駄な線が一つもない。七人の小人たちは、王妃に絞殺された白雪姫を発見し、同じように見とれたことだろう。彼らはうろたえるより先に陶然としたのではないか。
索状痕は赤く残ると聞くが、奇妙なことに首全体が木のような色になっていた。このままにしてはおけない。ドアの前まで車を運んできて、後部座席に横たえた。通りに人目はないようだ。堂々とやればいい。びくびくするから怪しまれる。二時間を費やし、山間部まで運んで、森林に遺棄した。
夜はよく寝た。殺人は容易だ。気分が高揚し、就寝する前に鏡に訊いてしまう。鏡よ鏡、世界で一番美しい女は誰。地味で平凡な顔が鏡の中にある。
翌朝は快晴だった。寝覚めもよい。人を殺すと罪の意識にさいなまれるというが、嘘だ。恋人候補を失った悲しみこそあるが、罪悪感など欠片もない。鼻歌を歌いながら店内の掃除を始める。清潔感のない店は駄目だ。範子は工夫を凝らして商品を配置していく。ディスプレイが重要で、すべてを鮮やかに派手に並べればいいというものではない。一見地味なコーナー、何もないようなコーナーをあえて作る。すると目立たせたい物、売りたい物がよく売れ出す。販売の準備を終え、営業時間が来ると、入口を解錠する。
そこに――彼女がいた。
ガラスの向こうに、雪が確かに立っているのだ。胸の辺りで細い手を軽く振り、微笑んでいる。櫛を入れていない、長い黒髪が乱れていた。範子は足がすくみ、動けない。ドアが開き、すらりとした少女は、呆然とする店主の前を通り過ぎる。範子は口をだらしなく開けていることに気づく。
「おはよう、おばさん。何よ青ざめちゃって。幽霊でも見たの。私のこと忘れた。雪だよ雪、あんたの好きな冴羽雪だよ、レスボス島のおばさん」
「馬鹿な。確かに、こ……」
「殺したはずっていうの。でもご覧よ」顎を逸らして、しなやかな首を見せびらかす。ロープの跡など一つもない。「私、不死身なの。死なないのよ。森になんか捨てるから、七人の小人に助けられちゃった」
範子は眩暈を感じた。
お前は……姫か。白雪姫なのか。
少女はディスプレイされた商品を端から床に投げ始める。制服は泥に塗れ、しわくちゃだ。「私をあんな山奥に捨てるなんてひどいよ。おばさんの意地悪。遠かったんだよ、あんなに歩かせて。朝までかかっちゃった。私くたくた。脚が痛い。マッサージして」
思わず、体をもんでやりたくなった。まだ惹かれているらしい。
雪は察し、一歩引く。
「真面目そうな顔をして、ほんとエッチなんだから。なによ、その目つき。あんたになんか、やらしいことしてあげない。指一本触っちゃだめ。私が昨日、男子と何をしたと思う。相手は名前も知らない子だったんだよ。いつも私を変な目で見てね。おばさんみたいな目だった。ストーカーみたいな、やらしい目つき。だから彼を誘ったの。授業をさぼってのこのこついて来て、馬鹿なんじゃないの。汚いし」彼女は金襴の布を床に放って伸ばし、体に巻き付ける。「こんなの似合わないなあ」
次に青い和生地を床に放った。範子は大声で止める。
「や、やめて下さい。売り物なんですよ」
雪は目じりを下げ、可憐に笑った。
「ボケてるの。私を殺したでしょ、絞め殺したんでしょ。だから何をされても仕方ないと思わない。思うでしょ。だったら贖罪してよ。小人たちも賛成するな、あんたになんか何してもいいって。この人でなし、外道、変態殺人鬼」
範子はレジに周り、足もとの買い物袋に手を伸ばす。金槌を握った。少女は棚ごと押し倒している。激しい音と共に小袋が床に散り、毛糸玉が四散した。
「聞いてよおばさん」少女は甲高い声で哄笑し、「あんたをうらやましがらせてあげるよ。あの不細工な男子が私に何をしたか知ってる。ヤニ臭いディープキスをした後、あいつスカートの中に手を突っ込んできたんだ」
聞きたくない。それ以上いうな。殺してやる。今度こそ殺してやる。
金槌を振り上げ、雪の元へ突っ込む。獣のような叫びをあげていた。少女の顔がこちらを向く。光景がスローモーションのように網膜に映った。幼さの残る端正で清らかな顔立ちだ。真ん中で分けた髪からのぞく額はやや長く、眉は薄くて、整った眼はつぶらだ。黒い金槌が食い込む前、おかしなものを見た。額が一瞬黄ばんだ気がする。
木を叩くような音がした。頭蓋が砕けたのだ、と範子は思う。雪は頭に手を遣り、逃れるように背を向け、そのまま昏倒した。背中に乗り、金槌を振り上げる。後頭部に何発も叩き込んだ。今度こそ殺す。確実にあの世へ送ってやる。
息が乱れた。金槌を落とす。
少女は微動だにしない。
範子は背から床に倒れ、天井を仰ぐ。蛍光灯が一つ切れている。呼吸が整うまでそのままていた。
十分ほど横たわってから、おもむろに起きる。死体を始末しなければならない。昨日と同じことの繰り返しだ。車を持ってきて、死体を入れる。トランクになど詰めようとするから駄目なのだ。後部座席に堂々と置けば、怪しむ奴などいない。現代、人は人に関心を持たなくなっている。
車で昨夜の二倍は走った。県境まで行き、人目につかぬ崖から死体を突き落とす。少女の死体はモローの描くサッフォーのように墜落していく。向かう先は海ではなく谷底だったが。
入念に撲殺したはずだが、致死に至らなくても、今度こそ絶対に命はない。車を切り返し、ゆっくりと店に戻った。臨時休業にしようかと思ったが、やめる。小娘のせいで営業できないのも面白くない。二時間ほど片付けをし、普通通りに来客を待つ。
その日はよく眠れなかった。
確かに殺したはずの女が、帰ってきたのだ。絞殺の場合、息を吹き返すこともあるというが、不思議なことに索状痕が見られなかった。柔らかいもので絞めると跡を残さないこともあるらしいが、この場合は違う。蘇生したというより、何もなかったかのようだ。
ではよく似た別人、あるいは双子が来た、というのはどうだろう。その場合、髪や制服の乱れ、汚れはどう説明するのか。そこまで作り込む必要があるのか。店を訪れた目的もわからない。殺されにくるようなものではないか。事実範子は再び彼女を手に掛けてしまった。
やはり冴羽雪は不死の人で、死ななかったから来られたのか。範子をからかい、もてあそぶために、再び訪れたのか。
範子はベッドから起き、一階へ下りて売り場の電気を点ける。レジ下から出刃包丁を取り、二階の寝室へ引き返して、サイドテーブルにお守りのように置く。しばらく手放すつもりはなかった。
その夜は何も起こらなかった。次の日も平穏無事に過ごす。いつになく客の多い日で、自然と冴羽雪との一件が薄れた。少女は不死の人などではなく、窒息して死にかけたが蘇生し、調子に乗って再び店に来たのだろう。あげく今度こそ念入りに殺されてしまったのだ。当然、生き返ることなどない。仕事を終えると外食に出た。三十歳で独身、夕飯は外でとることも多い。帰宅すると入浴し、だらだらしてからベッドに入る。
風が強く、時々建付けの悪い窓を震わせている。今夜はタイヤがアスファルトを擦る音が耳障りに響く。仕事の心労で疲弊している。
眠りかけたその時だ。
いきなり窓ガラスが割れた。驚いて飛び起きる。小型テレビの画面が砕けていた。再び何かが飛んできて天井に当たる。石だ。投石されている。粉々になった窓ガラスの向こうから「こんばんはー」という間延びした甲高い声が響く。聞き覚えがあった。
範子は恐る恐る窓に近づき、のぞきこむ。
髪の長い少女が見上げていた。冴羽雪だ。また現れたのだ。
少女はかわいらしい口を両手でメガホンのように囲って叫ぶ。
「おばさーん、嬉しいでしょ、私、来てあげたんだよー、二度も私を殺りそこねたね。
金槌で殴り殺すなんて野蛮だよ、下品だよ、アタマオカシイよ。私絶対、おばさんの生活めちゃめちゃにしてあげるからねー」
範子も叫んだ。
「ば、化け物」
「照れなくてもいいじゃん。おばさん、まだ私のこと好きでしょ」
「殺してやる」
「だーかーらー無理だって。無駄無駄無駄なの。私死なないもん。何度いったらわかるのーオツムにはエッチなことしかないのー低能なのぉー」
範子は下がり、テーブルに置かれた出刃包丁を握る。刺す。今度こそ絶対に殺してやる。
一階まで駆け下り、外に飛び出し、コンクリートの敷かれた庭に回った。外灯が少女の面長の顔を白々と照らし出している。雪は両手を広げ、薄く笑う。
「おばさん、ピンクに白い水玉模様のパジャマなんて子供っぽくていいじゃない。でも出刃包丁はだめ。ぜんぜんおしゃれじゃない。そんなもので私をこ――」
「黙れ、死ね」
刃物を腰だめにして突っ込んだ。
腹を刺す。手ごたえはあった。抉るつもりだった。しかし硬い。木に刺したように堅い。これはいったい何なのだ。少女の細い目は横にした三日月のようだった。薄い唇が開き、低いつぶやきが漏れる。
「だからあ、私は不死身なの、不・死・身。出刃包丁なんかで殺されるもんか。おばさんもたいがいしつこい。白雪姫のお母さんみたいに陰湿だよ。あんたなんか燃える靴を履かされ、死ぬまで踊ればいいんだ」
少女の長い指が、範子の首に伸びてきた。
次に起こった事態を、範子は簡単には理解できなかった。
何かに突き飛ばされ、同時に閃光のようなものが眼前をよぎった。冴羽雪は目を見開き、呆然として両手を見ている。手首から先がない。真っ赤な切り株のような両手が血を噴き、範子のパジャマを濡らす。
誰かが叫ぶ。
「一気(いっき)、今だ」
一瞬、ガソリンの臭いがし、雪の服が火を噴いた。自然発火したように見えた。たちまち炎が全身を包む。後ろにいた青年が缶と棒のようなものを放る。燃料と発火装置か。彼は姿勢が悪く、髪はぼさぼさで、貧乏大学生といった風貌だ。
雪は火だるまになって地面を転がった。燃える両腕が青年の脚に絡みつく。あっという間に火が男の服に燃え移り、彼も倒れた。女を蹴って逃れたものの、火だるまになって地面を転げ回る。
範子は腰の力が抜け、座り込む。いつの間にか隣に立っていた少女が、青年に向かって声を荒げた。
「馬鹿か。お前は王妃か。灼熱の靴を履き、死ぬまで踊ってろ」
どこからか、もう一人現れた。黒づくめのスーツを着た、執事のような男だ。オールバックの下に、整えられた眉と、釣り気味の目がある。彼は楽器のように優雅に、赤い消火器を構え、噴射して青年に吹きかけた。白い消化粉末の中、青年は体を横転させ、もが
き、やがて静かになる。執事のような男は、秀でた額に手を遣り、溜め息をつく。
「私に消火器を持たせるとは」範子の隣の少女に目を向け、「念のため救急車を呼んでおきます、――蘭冷(らんれい)様」
冴羽雪は完全に動きを止め、焚火のように燃えている。男は消火器を脇に抱え、地面から、切断された両手を一つずつ拾って炎に投げ、闇に紛れて消えた。
少女は、ごくろう正宗(まさむね)、といったようだ。
範子は蘭冷と呼ばれた少女を見上げる。
小さい。夜なのに制服を着ている。白いブラウスとチェックのスカートは、雪と同じ高校のものだ。手に小型の手斧を提げている。雪の両手を一瞬に切断した得物だろう。顔に目を遣り、範子は息を呑む。きれいだ。それだけではない。黒目が一瞬、赤く輝いたような気がした。長い髪を三つ編みにしている。大きなきつい目を向け、話しかけてきた。
「大丈夫か、ご婦人」
「一体全体、これは……どういうことなんですか」
「冴羽雪は木人(もくじん)だった」
蘭冷の淡々とした口調に、範子は首を傾げた。もくじんとは、どんな字をあてはめるのだろう。木人だろうか。空き教室にあった、木製のマネキンが脳裏をよぎる。少女はすべてが自明、といった様子で続け、
「木人は通常、人間化しており、死ぬと木に戻る。しかし冴羽雪は自分の意思で、好きな時に木人化できるタイプなのだ。全身はもちろん、部分的にも木になれる。首を絞められそうになったら首を硬化し、頭を殴られそうになったら頭を硬化し、腹を刺されそうになったら腹を硬化する。故に、もっとも簡単な倒し方は燃やすことだった。だから鈴森(すずもり)一気に火を点けさせた」
「そうですか」と範子は答えたが、理解したわけではない。
どう見ても、生きてる人間にガソリンをぶっかけ、焼いているだけにしか見えなかった。冴羽雪は結局、範子が非力な故、絞め殺せず、殴り殺すこともできず、刺されても腹には防具を入れていて助かり、あげくの果て、サイコ・キラーに焼き殺されてしまっただけではないのか。蘭冷は心の病だ。明らかに頭がおかしいのだ。こんなに美しいのに、斧を振り回し、人を焼き殺す。なんと哀れな女の子なのだろう。
範子は膝立ちになり、蘭冷の腰に両腕を巻き付ける。少女は口を丸く開いた。
「何をする」
「可哀そうに。あなたは狂っているのです。病気なのです。でも大丈夫、私がいます。私がついていて、守ってあげますから。だから」
「だからじゃない。ちょっと待て」
斧を持つ手が震えている。
「その斧で私を殺しますか。いいですよ。怖くなんてないです。やって下さい。あなたになら殺されたっていい。斬って下さい。脳天をかち割って下さい」
「何なのだ、お前は。離せ。私は、人は殺さない」
白い粉末に塗れ、地面に力なく横たわる青年を見て、少女は命じた。
「一気、私を助けろ」
「彼を呼んでも無駄ですよ。あなたのナイトは真っ白になって燃え尽きています。蘭冷ちゃんとおっしゃるのですね。何て可愛いんでしょう。冴羽雪の何十倍、いえ何百倍もきれいだわ」お妃様、あなたがここでは一番美しい、けれど若い女王様はあなたの千倍も美しい。「姫、私のお姫様と呼んでいいですか」
範子は両腕に力を込め、真顔でプロポーズした。
「蘭冷様、私と結婚して下さい」
FIFTH WILL RETURN
2025
WINTER
©2025 飛鳥部勝則
挿画 鈴木康士
装画 鳥光芳樹
編集 書泉・芳林堂書店
