この解説では、白井作品全般に通じる特徴をまず挙げた上で、その特徴が本書『お前の彼女は二階で茹で死に』ではどんなふうに顕あらわれているかを考察する、という形で、論を進めていきたいと思っている。
さて、白井智之はデビューから七年間で九冊の本を著している。まずはそのリストを掲げておこう。
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1『人間の顔は食べづらい』角川書店二〇一四・一〇→角川文庫二〇一七・八
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2『東京結合人間』角川書店二〇一五・九→角川文庫二〇一八・七
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3『おやすみ人面瘡』角川書店二〇一六・一〇→角川文庫二〇一九・九
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4『少女を殺す100の方法』光文社二〇一八・一→光文社文庫二〇二〇・一二
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5『お前の彼女は二階で茹で死に』実業之日本社二〇一八・一二→本書
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6『そして誰も死ななかった』角川書店二〇一九・九→角川文庫二〇二二・一
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7『名探偵のはらわた』新潮社二〇二〇・八
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8『ミステリー・オーバードーズ』光文社二〇二一・五
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9『死体の汁を啜れ』実業之日本社二〇二一・八
こうして並べてみると、改めて凄いなと思う。いやー凄い。
各タイトルの字面からは、怪奇映画やスラッシャー映画(しかもB級のそれ)を連想される方もいるかもしれないが、中身はあなたが想像している以上にグロテスクでありヘンテコである。どれを読んでも「何だコレ?」と言いたくなるような、異常な設定だとか展開だとかがあなたを待ち受けている。なのでそういうのが苦手な人が間違って読んでしまわないように(読者みずから選別するために)、刺激の強いタイトルを付けているのだと思っていただいても、それほど的外れではないだろう(この九冊の中では6や8がわりと無難そうに思えるが、たとえば8の場合、目次を開いてみれば二編目の短編のタイトル「げろがげり、げりがげろ」が目に飛び込んでくるので、油断がならないことはおわかりいただけるだろう)。『お前の彼女は二階で茹で死に』という過激なタイトルにめげずに本書を手に取り、この解説文にいま目を通しているあなたは、すでに白井作品に適した読者として選別されているのだ。
それは幸福なことである。なぜなら白井作品は総じて「優れた本格ミステリ」であるのだから。読まないと損するレベルで優れている。あなたにグロ耐性があるから、その「優れた本格ミステリ」が味わえるのだ。グロ耐性がなければこの優れた作品群を読むことも叶わない。何ともったいないことだろう。各編ともタイトルどおりにグロくてヘンテコで、だがそれでいて白井作品はいずれも、しっかりと理屈の通った優良な本格ミステリに仕上がっているという点は、いくら強調してもしすぎということにはならないだろう。
なので再度書く。超短編などを除けば、白井作品はすべて「謎-解決」の太い軸が物語の中心に置かれている。ジャンル読者からの評価も軒並み高く、年末の各種ベストテンの常連になりつつある白井智之は、本格ミステリ界の若手のホープなのだ。
白井が武器にしている特徴のひとつに「特殊設定」がある。われわれの住むこの現実世界とは異なったルールに支配された異世界や、あるいは現実をベースにしていても実際には存在しない奇病が蔓はび延こっている状況を舞台にした作品が多い。本書でも冒頭から「ミミズ」と呼ばれる作中世界ではメジャーな奇病がまず描かれ、そこに「べとべと病」や「トカゲ病」といったマイナーな奇病が絡んでくる形で、特殊な設定が用意されている。そしてそれらがすべて、本格ミステリとしてのトリックやロジックに組み込まれているのだ。
白井が「優れた本格ミステリ」を書く上で武器にしているもうひとつの特徴が「多重解決」である。本格ミステリでは「犯人は誰か」といった謎に対する「唯一の解答」が、直観等ではなく誰もが納得できる論理によって導き出される点が、他のジャンルにはない特性として挙げられる。多重解決というのは、読者にいったん「これが唯一の解答だ」と納得させてから、それを作者みずからが論理的に否定した上で、別の解答を見せて「いや、これこそが唯一の解答だ」と改めて思わせるという難度の高い「技」につけられた名称で、通常の「唯一の解答」を論理的に導くことでさえ書くのが大変なのに、それを否定してその上をゆく別解を示す(さらにそれを二度三度と繰り返す)ことがどれほど難しいかは、論を俟またないであろう。
白井はそれを得意としている。長編で二度三度は当たり前、枚数の少ない短編でも最低一度は、別解を見せた上で真相を告げるという手続きを踏んでいる印象がある。これは今までの本格ミステリの水準からすれば、驚異的なレベルの高さである。
本書ではその「多重解決」にさらに縛りを設けている。それを説明する前に、まずは本書の構成をざっくり説明してみよう。全体を貫く筋があり、長編としての骨格を持った作品なのだが、最後の短い「後始末」を別にすると、本書は四つのパートにわかれていて、そのうち第一部から第三部に関しては、それぞれ独立した短編小説としても読むことができる。事実、最初の「ミミズ人間はタンクで共食い」は短編として雑誌に発表されたものである(長編化に際して一部加筆修正がなされている)。
第一部の冒頭、ミミズのノエルの視点で書かれた部分に「分岐」がある。その「分岐」が第一部において多重解決の切り替えスイッチの役割を果たすのである。〇〇〇する相手として誰を選んだかが真相の分かれ目になるのだ。こんなとんでもない着想を実体化した小説は他にない。誰も思い付かないし、たとえ思い付いたとしても実現するまでの難度が高すぎて、何をどう書いたら目標を達成できるかがわからない。それを白井智之は易々とやってのけている。
そして第二部である。読者はその冒頭を読んで、嫌な予感を抱くかもしれない。まさかそんな……。でもそのとおりなのだ。そして第三部でも……。それがいかに難度の高い挑戦であるかは、実作を試みたことがない読者でも想像は可能だろう。同業者の立場からすると、これは本当に凄いことだと言わざるを得ない。いくら「多重解決」を得意としていて自信があるからといって、まさかこんな目標を立てて実現してしまうとは。
白井作品の三つめの特徴としては、本稿の序盤からも繰り返し書いてきた「グロテスク」性が挙げられよう。奇病難病に由来するグロのみならず、汚物のグロあり、あるいは監禁や暴行といった精神的にきつい描写もありで、事前にある程度覚悟をしていても、読んでいてげんなりすることがままある。だが少なからぬ場合、白井作品においてそれらは重要な意味を持つ伏線だったりするのだ。本書を既読の読者は第二部における、汚物まみれの現場の状況が、犯人限定のロジックに見事に組み込まれていた点を思い起こしてほしい。
あるいは白井作品におけるグロ性は、新本格第一世代からすれば親子ほど年の離れた若い作者が見出した、彼なりの戦略だったかもしれない。本格ミステリにおいて先例のあるなしは重要である。いくら優れたアイデアであっても、先例があっては充分な評価は得られない。今や還暦を迎えようという新本格第一世代は長く生きているぶん、大量のジャンル内作品を読んでいて、先例のあるなしは熟知しているのに対し、読書経験がその何分の一かしかない若手作家は、自作を発表するたびに、先例の見落としを危惧しなければならない。ところが奇病やゲロをトリックや手掛かりに使った先例は、調べずともほぼ無いことがわかっている。白井はそこに目を付けたのではないか。
ここで私自身の話をさせていただこう。私は綾辻行人の某長編を読んだときに、いやいや、犯人が使ったアイテムよりも目的に適った別のものがあるじゃん、というところからちょっとしたアイデアを思い付いたことがある。たぶん先例はないはずだ。だが私はそれを自作に活かすことができずにいた。そして白井の某短編に先を越されたのである。おそらく白井も私と同じ綾辻作品から、そのアイデアを思い付いたのではないか。
いや、そもそも私のデビュー長編『Jの神話』はグロ要素を含んだヘンテコな作品であり、他にも『嫉妬事件』など下ネタを含む作品を書いていて、そういった意味でも白井智之に対しては勝手な共感を抱いていた。しかし私はそういう路線以外の作品も書いている。『Jの神話』でデビューしたとき、これで下品なものから上品なものまで自由にものが書けるぞ、というアドバンテージを感じていたことを覚えている。上品側の代表例として北村薫を想定し、北村氏はたぶん自分で作り上げたイメージに縛られて、思い付いたネタを放棄することもあるだろうな、不自由だろうな、などと思ったりしていた(しかし北村の『盤上の敵』を読んだときに、自分の優位性など実はどこにも無かったんだと思わされたのはまた別な話だ)。
閑話休題。最後に白井作品の第四の特徴として「ユーモア」を挙げたい。白井作品に出てくる固有名詞はだいたいにおいて変である。本書でも第一部から抜き出しただけで、大耳蝸牛、ヒコボシ、オリヒメ、オシボリくん、リチウム、ミズミズ台、ズズ団地など、「固有名詞なんてテキトーに付けても大丈夫、ミステリの本質とは関係ないし」と割り切って付けられたと思しきものが頻出する。それが結果的に「グロ」を中和する「ユーモア」を生み出しているように思う。
というわけで白井智之は「特殊設定」「多重解決」「グロ」「ユーモア」を特徴とした作風で活動を続けている、というのが私見である(こういうレッテル貼りは、ジョン・ディクスン・カーに貼られた「密室」「オカルト」「ユーモア」という例のやつと同様、作風の分析を画一化してしまう弊害があるので、いずれは松田道弘的な誰かによって異論が唱えられるのが望ましい。いや、私自身は、白井の未来における実作によって打破されるのを望む気持ちがあるのだが)。
そう。自分の経験からすると、白井はもっと自由に何でも書けるはずだし、そういう道を選ぶこともできたはずである。しかし彼は今のところ、作風の幅を狭く取って活動を続けている。本格ミステリ作家の多くは、まるで猫のように、狭くて不自由な場所に閉じ込められることを良しとする習性を持っているように思う。その路線を続けるのは、執筆の難度という意味でも読者を選ぶという意味でも、荊いばらの道に違いないのだが、白井智之という才能が今のところは「その道」で輝きを放っているのも事実である。今後の活躍を見守りたい。