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宮島孝は福笑いが怖い。

福笑い?たわいのない遊びだ。

目隠しをして、顔の輪郭だけ描かれた紙の上に、眉、目、鼻、口を描いた紙を置いていき、できあがった顔の滑稽さを楽しむ。正月にする、つまらない遊戯である。少なくとも恐怖を感じるようなものではない。

しかし彼は、福笑いが怖かったのだ。

帰省するのは久しぶりのことだった。

宮島孝は富山市の小さな工務店に勤めている。地元に留まりたくなくて他県に職を求めた。実家に帰ることは嫌ではないのだが、鬱陶しい。だから大晦日の午後、こうして家路についている。三十九歳になるが妻はない。少年期の体験がトラウマとなって、女性を遠ざけているのかもしれない。

越後岩山駅からは近道を歩いた。獣道のような細い田圃道と、畦道をつなげたコースだ。舗装された道路を辿るよりも十数分は早く着く。通学した時によく利用した。

竹林の向こうに寺が見える。安楽寺という寺だ。前から見ると普通の寺と変わりないのだが後ろに回ると、床下が牢になっていることがわかる。疫病が蔓延した時に建立されたものだという。村の鎖守様であり、孝にとっては思い出の場所でもあった。その…安楽寺の前を通りかかった時、彼は福笑いの恐怖を思い出したのだ。

子供の頃、《福笑いおじさん》という男がいた。

この辺りでよく見かけたものだ。孝が少年時代を過ごしたこの村も、今ではほとんどの道が舗装されているが、当時はアスファルトの道の方が珍しかった。車を持っている家など皆無だった。彼はわざわざ車を見に行ったことがある。国道まで出て、たまに走ってくる自動車を、飽きずに眺めた。音を立てて走るトラックやジープが、孝の目には大きな玩具のように映った。今の子供には考えられないことだろう。その後自動車はあっという間に普及し、今では彼も自分の車を持っている。当時の田舎は妙な所だった。小学校の帰り、道端で蛙を捕まえたりしていると様子のおかしい人を何人も見かけた。それは軍服を着て、あらぬ方向を見ながら何かつぶやいている老人であったり、でっぷり太って遠い目をした「熊さん」と呼ばれる青年であったり、肩から胸にかけて脂ぎった肉を剥き出しにしながら彷徨う中年女だったりした。彼らは別に人に害を加えるわけではない。独り言をつぶやきながら、ふらふらと出歩いているだけである。子供たちも自然にそれを受け入れていた。

福笑いおじさんも、そういった彷徨者たちのうちの一人だった。

三十歳くらいの大柄な男で、いつも薄汚れた灰色の作業着を着て、ぼんやりと歩いている。ぎょろりとした目と薄い鼻、こけた頰、魚類のように突き出した口——顔の造作の一つ一つもかなりエキセントリックだったが、真に奇異な感じを与えるのはそういった点ではなく、《繫がり》であった。各パーツの繫がりがばらばらなのだ。目鼻立ちを一度剝ぎ取って、目隠しをして貼り直したような、いびつな顔をしていた。

彼が畑で異様なことをしているのを見たことがある。

孝は杉の木陰からその様子をこわごわ眺めていた。陽は高く、地面から水蒸気が立ちのぼっているような夏の日だった。福笑いおじさんは腰を細かく動かしていた。目が飛んでいる。もっとも彼の目はいつも飛んでいた。何か呻いている。口から涎が流れ始めた。彼は、犬のように四つん這いになった女の腰を抱えていた。女は赤いワンピースを着て、白い腰から足にかけてを剝き出しにしている。彼女は声を立てなかった。おじさんの動きに合わせて体をくねらせている。目だけが怖いように輝いていた。孝は白い狐のような女の顔から目が離せなかった。その顔に、見覚えがあったのだ。

お菊さんだった。

彼の家に居候している女だったのだ

お菊さんは、いつも赤っぽいワンピースを着ていた。いや、そんなはずはないのだが、孝の記憶の中ではそうなのだ。畑の中で見た彼女の姿が、強烈に記憶に焼き付いてしまった、ということかもしれない。疲れた白い狐のような顔をした女だった。赤っぽい髪が肩の辺りまであり、細くて吊り上がった目に、酷薄そうな薄い唇をしている。

彼女は彼にとって叔母にあたる。母の弟の妻なのだ。血はつながっていない。お菊さんの夫は工事現場で死んだ。陸橋工事の際、足場から転落したのだという。身寄りのないお菊さんを、宮島家で引き取ることにした。それは結果としては失敗だったかもしれない。盛り場で水商売をしていた女にいきなり農家の重労働が勤まるはずもなく——本人にもさらさらその気はなく——彼女は単なる居候と化していた。

孝は、その居候の叔母が福笑いおじさんと交接しているのを、瞬きもせずにいつまでも眺めていた。彼は小学二年生であり、お菊さんは三十を少し越えたくらいだったと思う。お菊さんが「単なる」居候ではなかったことを知ったのは、畑で彼女を見てから三日後のことだ。

歯医者に行った帰りだった。その日、両親は農作業で手が離せず、お菊さんが歯医者まで連れていってくれたのである。

帰り道、孝は女に手を取られて家に晌かっていた。五時を回っていたが、日が沈む気配すらなく、目の前を黄色と黒の鬼ヤンマが掠めていく。お菊さんの目がトンボの動きを迫う。孝は恐る恐る聞いてみた。

「三日前の土曜日さ、お菊さん何してたの?」

「何って、何さ」

彼女は逆睫を二、三度瞬かせる。孝は重ねて、

「学校の帰りに見たんだ。畑でさ、福笑いおじさんと何してたの」

女は表情を変えなかった。握る手に力が籠もっただけだ。

しばらく無言で歩く。

安楽寺が見えてきた。お菊さんは少し立ち止まってから、孝の方を見ずにいう。

「ねえ坊、ちょっと寄り道してかない。父ちゃんと母ちゃんはどうせまだ田圃から帰ってないよ。それとも、お腹すいた?」

孝は首を横に振った。

「じやあさ、あたしと遊んでこうよ」

お菊さんは、少し引きずるようにして彼を寺まで連れていった。

安楽寺の住職はもともとは山伏だったという。ちやんとした修行をしたのかどうか定かではない、素性の怪しい者という意味で、そう呼ばれていたらしい。彼はふだん、どこに行っているのか知れず、寺は荒れ放題である。建物の入り口には鍵が取り付けてあるのだが、壊れてから久しい。いつでも誰でも入れる。もっとも、中に金目のものはない。孝とお菊さんは暗い寺の中に入っていった。部屋の中にはむっとする湿気が籠もっている。黒ずんでみすぼらしい仏像が二人を見下していた。

「坊、横になってごらん」

白い顔の女はいう。

孝はいわれるままに床に寝そべる。

「目を閉じなよ」

お菊さんは命じた。

孝が目をつむると、女はいきなり何か柔らかくて、温かいものを彼の唇に押しあててきた。驚いて目を開く。白い顔がそこにあった。

「見るんじゃないよ」

彼女は顔を離し、しなやかな指で孝の瞼を下ろす。彼はかたく目を閉じた。

〔そう、いい子だね」

女はまた唇を当ててきた。孝の口の中に、柔らかくて生臭いものが挿入される。それは、渦を描くように回転していた。気持ちが悪かった。ナメクジか大きなミミズが口の中で蠢いているような気がする。彼の目から涙がにじんだ。女にのしかかられ、体を動かすことができない。それでなくとも心は乱れ、どう反応したらいいのか、わからなかった。孝は数分その拷問に耐えた。やっと解放された……と思った瞬間、チャックを下ろされた。女はそれからベルトを外した。孝の、まだ小さなものを乱暴につかむ。

「やめて」

彼は小さな悲鳴を上げた。女は手で彼の口を覆う。

「しゃべるんじゃないよ。目も開くなよ。そう、いい子だ。じっとしてな」

お菊さんは、手に握ったものを擦り始めた。孝は痛みしか感じなかった。しかし、「ほう、よくしたもんだね、子供でも男はやっぱり男さ。はしたないねえ。それ、大きくなあれ」

女は大きくなあれ、大きくなあれと繰り返しながら、孝をもてあそび続ける。彼は苦痛と屈辱感で気が遠くなりかけた。その間も、お菊さんは何かつぶやき続けている。……あんたはあたしのオモチャになるのさ。坊のおやじがあたしをオモチャにしてるようにね。何だい、あのむっつりすけべ、食わせてやるからやらせろってよ。ふざけんじゃないよ、人を何だと思ってるんだい。あたしが夜の女だったからってなめやがって。でも今度はあたしの番さ。あたしがあんたをもてあそんでやる。坊はオモチャのオモチャになるんだよ……孝は薄れそうになる意識の中で物音を聞いた。微かに床下で音がしている。幻聴かと思った。しかし確かに、何か大きなものが這うような音が、下から聞こえてくる。巨大な蛇が這いずり回っている様子が頭に浮かんだ。

「お、音が……」

孝はやっとそれだけいった。

お菊さんが手の上下動を止めた。耳を澄ましているのだろう。やがて彼女はまた摩擦運動を始めながら、こういった。

「気にすることはない。お菊さんだよ」

「何をいってるの。お菊さんはここに、うつ……」

最後まで言葉にならなかった。女は手の動きを止めずに、どこか沈んだような声でこう続ける。

「あいつもお菊さんなんだよ。坊も見たことあるだろ。下の牢屋に女が閉じ込められてる。あの女もあたしと同じ菊って名前なのさ」

そういえば……

安楽寺の床から地面までは一・五メートルほどあり、後ろから見ると、柱と柱の間に角材が格子状に貼られているのがわかる。一種の牢屋になっているのだ。地面の土はやや掘り下げられ、大きな薄い洗面器の底のようになっており、そこにはゴザが敷かれていた。

彼女はその牢にいた。

孝はその姿を何度も目にしている。

女はいつも、背中を見せていた。海老茶色の和服をだらしなく着て、ゴザに横座りしているのだが、決してこちらを向かない。黒髪は尻に届くほど長かった。袖から伸びる手は筋ばっていて細く、土色をしている。長い指の先の、爪が異様に尖っており、獣のようだった。牢の前を通りかかるといつも、魚の腐ったような臭いが鼻を突いた。孝は女を振り向かせようとして、石を投げたことがある。しかし彼女は振り返らなかった。石が女の頭に当たり、首筋を血が伝ったこともある。だが女は決してこちらを見ようとしなかった。孝はどうしても女の顔が見たかった。だから青大将を捕まえてきて、中に放ったこともある。びっくりさせようと思ったのだ。女が慌てれば、顔を見るチャンスも生まれるかもしれない。だが目論みは外れた。八十センチほどの黒っぽい蛇は、体をくねらせながら女に近づき、足の辺りから服の中に消えていった。しかし彼女は微動だにしなかった。孝は怖くなり、家まで走って逃げた。

そうか……あの女も菊というのか。孝は女の口が彼のものをくわえるのを感じた。

彼は悲鳴を上げた。

四十に近い、今となっても、あの寺での体験は忘れられない。

周囲を漫然と見回す。杉の木が黒い影を足元に落としている。山稜はうっすらと雪を被り、山の斜而が切り株だけの田圃に緩やかになだれ込んでいた。狭い盆地の中にぽつりと点在する小さな村だ。過疎化が進み、いっかは廃村となってしまうかもしれない。

孝は安楽寺に背を向けた。あの寺は嫌な思い出と結び付いている。

いや——

今にして思うと、不快なだけではなかったような気がする。何故なら孝はその時、最後まで抵抗しなかったからだ。小学校低学年ではあったが、普通程度に健康な少年だったのだ。暴れようと思えば、できた。しかし彼は逃げなかった。そこには、禁忌を犯す時の、異様に甘美な感覚が、確かにあったものらしい。

それに、お菊さんは好色なだけではなかった。性的な虐待は、その夏から冬になるまで続き、確かに彼女はおぞましい存在だったが、しかしそれだけでもなかった。彼女には面倒見のいいところもあったのだ。父母が稲作に追われる中で、孝の遊び相手をしてくれたのは、いつもお菊さんだった。例えば、彼女は不器用だったが、色々な玩具を作ってくれた。

お菊さんはいったものだ。

「あたしは、オモチャにオモチャを作ってやってんだよ」

オモチャは、それだけでは何物でもない。玩具が玩具となるためには、遊びが必要である。逆にいうと、遊びたいという気持ちがあれば、人はあらゆるものをオモチャにできるのだ。ビー玉やびっくり箱は無論のこと、石でも、板切れでも、昆虫でも、動物でも、あるいは人間でも、それらは容易に玩具となる。

お菊さんは、竹トンボ、凧、ボール紙を切り抜いたメンコ、そして下手な絵で描かれた福笑いなどを作ってくれた。孝は彼女が作った稚拙な福笑いを今も忘れない。ボール紙にはマジックでベース型の男の顔が描いてあった。七三分けの男だった。目や鼻のパーツは下手な絵で、しかし極めて生真面目に描かれていた。孝はその絵が好きだった。下手であるが故に好きだった。

正月が過ぎても、彼は時々、その福笑いをやってみた。目を閉じて、顔の部分を並べていく。何回もやったせいで、もはやどのような形に並んでも、少しも滑稽ではない。しかし彼はやめなかった。今度は目を開けたままで、飽きずに目鼻を並べ続けた。絵への愛着だけが深まっていった。それはすでに福笑いという遊びではなかったのかもしれない。玩具は本来の遊び方とは別の、様々な使い方を暗示する。例えば積み木というものがある。子供たちはそれで家を作る。しかし積み木の遊びはそれだけに限らない。積み木を武器のようにして使い、戦争ごっこもできる。料理ごっこもできるだろう。無論立方体や円筒形の木片が武器や料理に変わるわけではない。変わるのは遊んでいる子供たちである。彼らの意識が変わるのだ。

孝の場合も、福笑いを続けるうちに何かが変わっていったのだろう。何がどのように変わったのかはわからない。しかし彼はその無様な絵の向こうに、いつもお菊さんを見ていたような気がする。

その夜も孝は福笑いをやっていた。

お菊さんは孝を背中から抱くような格好で、後ろに座っていた。

「坊はほんとにかわいいね。そんなもの、どこが面白いのかね」孝は台紙に描かれた輪郭の上に、目や鼻を並べていく。女は彼の耳に息を吐きかけながら、「そういえばさ、福笑いおじさんってのがいただろ。一度、坊に見られたね、あいっと畑でやってるところをさ」

何ヶ月も前のことをどうして今、蒸し返すのだろう。孝はふて腐れたようにいった。

「やってる、って?」

「あたしと坊がしてるようなことをさ」

「何にもしてないじゃないか」

「とぼけるんじゃないよ」

「照れてるんだよ」

女は、ほうと感心したような声を上げ、

「少しば切り返せるようになったね、坊。あたしの教育がいいせいかね」

「いやらしいことが教えないじゃないか」

「そうだね……」

女は少し、しんみりした声を出し、

「あたし、いっかはあんたの母ちゃんに殺されるかもしれないね」孝は答えられなかった。女の声に実感が籠もっていたからだ。お菊さんは、あの夏の日、暗い寺の中で「坊のおやじがあたしをオモチャにしてる」といっていた。あれから五ヶ月も経つ。孝も今では、父と叔母の淫靡な関係を薄々と察している。母が気づかぬはずもない。しかもその女は、一人息子をもてあそんでいるのだ。母がそのことをも知れば、殺意が芽生えても不思議ではなかろう。

孝はふと、唐突な疑問を抱いた。

そういえば、あの時……

「お菊さんは、寺の牢に閉じ込められている女の名を、どうして知っていたの」

お菊さんは言葉を溜める。

それから、からかうように答えた。「彼女はあたしだからだよ」

「噓だ」

「あたしは噓つきさ」

「何故女の名前がわかったの」

「婆さんから聞いたんだよ。二十年も前にね」

「二十年?」

お菊さんはやや教師を思わせる口調で、

「牢の中の女はさ、何であんなに古い着物を着てるんだろうね、江戸時代でもあるまいし、昭和のこのご時世にさ。いくらここが田舎だからって、おかしいと思わないかい」

「そうだね……」

「あの女はね、あたしが子供の頃からあそこにいるんだよ。ずっとあのままなんだ。年をとっていない。変わらないんだよ。おそらく、もっと遥か昔、あたしの婆さんが子供の頃から……ひよつとしたら、それよりも前からあそこにいるんだよ」

「本当に?」

「あたしは法螺吹きさ」

「あの女の顔を見たことある?」

「ないよ、でも知ってる」

「どういうこと』

「あの女の顔はね——」

お菊さんは彼の顎をつかんで上を向かせ、

「この顔さ」

吊り目をした女の、白い顔が微笑んでいる。

孝が黙って見つめていると、彼女は言葉を継いで、

「あいつはあたしなんだよ」

「同じお菊さんだもの、顔も同じさ」

「からかってるね」

「そうさ」

孝は顎からお菊さんの手を外し、再び福笑いを始める。

女は彼の首を軽く揉みながら、

「また福笑いか、フフッ」

彼女は妙な笑いを漏らし、

「不思議なもんだね、いかれてても福笑いおじさん、あっちのほうはちやんと使いものになるんだよ」

孝は聞かないようにした。うんざりだ。

しかし女は彼の耳に唇を近づけ、甘く囁くようにこういった。

「でもね、坊、福笑いおじさん……あいつね、死んだんだよ」

孝は手を止める。お菊さんは続けて、

「咋日川で見つかった。冬の川に落ちたんだ。一発であの世行きさ。死体はずいぶん流されたっていうよ。どうして川になんか嵌まったのかねえ。酔っ払って足を滑らせたんだろうか。誰かに突き落とされたのか」

孝は一瞬、その声の陰惨な響きに驚いたが、少し浮いた明るさで答えた。

「あのおじさん、ぼーっとしてるからね。不注意で川に落ちたんだよ」

お菊さんは独り言をいうように、

「そうかねえ?あいつ一回やらせてやったら、しっこくつきまといやがって。頭の中は空っぼのくせに、性欲だけは十人前さ。煩わしいったらありやしない。牡だよ牡。あたしにとっては邪魔だったのさ。だから……」

女は言葉を吞んだ。孝は聞いてみる。

「だから、どうしたの?」

「何でもないさ。死んでせいせいしてるってだけでね」

「お菊さん、ちょっと嬉しそうだよ」

「生意気だね、坊」

女はそれから、意地悪い調子で続ける。

……ねぇ坊、知ってるかい?水死体ってのはすごいだよ。あの男、達磨みたいに膨れてたってさ。顔も膨らんで、目も鼻も口もなくなってたんだって。もともと福笑いおじさんだからね——」

お菊さんは福笑いのピースを台紙から取り除き、

「最期には、こんな顔で死んでいったのさ」

孝は少しぞっとした。台紙に描かれた、何もない真つ白い顔が、初めて不気味に見えた。女は彼の股間に静かに手を伸ばす。その時、孝は視線を感じた。振り返る。誰もいなかった。しかし障子戸の向こうから、誰かが見ていたような気がした。孝は直感的に、母かもしれない、と思った。

次の日、学校から帰ってくると母の顔に傷があった。

引つ搔かれたような傷だ。「どうしたの?」と聞いたが、母は答えなかった。孝は昨夜のことを思い出した。母はやはり、お菊さんが彼をもてあそぶのを見ていたのかもしれない。それで、喧嘩になった。顔に傷を負うほどの、つかみ合いをしたのだろう。家中捜してみたが、お菊さんの姿もなかった。彼女は出ていったのかもしれない。「お菊さん、いないの?」と孝は聞いた。母は黙ったままだった。

その夜は、静かだった。戸外で物音一つしない。

孝は一人布団に入り、隣の部屋から聞こえる声に耳を傾けた。父と母は夕方から出掛けた。理由は聞いていない。茶の間から、祖母と祖父の会話が、悪事の相談のように密やかに聞こえてくる。孝はしばらく漫然と耳を傾けていたのだが、急にはっとした。話の中に「お菊さん」という名前が出てきたからだ。

祖父がこういったのだ。

「お菊さんが逃げた」

祖母が受けて、

「えらいこった。どうしょうもねえな。どうして逃げたがあつペか」

「わかんねえ。にしても、一郎も糸も帰ってこられねえわけだ。今夜は大騒ぎになるなあ」孝の父は一郎、母は糸という。祖母は苦渋をにじませて、「こつけの時になあ。若えしよは出稼ぎに行ってるてがんに」「仕方ねえて。残ってる若いもんはみんな駆り出されてるてが」「お菊さん、朝までに見つかればいい方だて。山狩りになるつベか。何日かはこっけんことが続くがかな」

「おっかねえな」

二人の話し声は次第に低くなり、ついにまったく聞こえなくなった。

孝は枕元に、福笑いの台紙をお置く。

お菊さんが逃げたという。母と喧嘩したことが原因なのだろうか。しかし山狩りとは?彼女は山に逃げたのだろうか。そういえばお菊さんは以前、真子山の向こうの庭町に住んでいたと聞いたことがある

福笑いのピースをかまっているうちに、孝はうとうとしてきて、やがて眠ってしまった。

眠ったのだ、と思う。

記憶は定かではない。

彼は夢の中でも福笑いをやっていた。明かりは消え、窓から差し込む月の光だけが、辺りをうっすらと照らし出している。おそらく祖母が電灯を消してくれたのだろう。しかしこれは夢なのだ。いやそうではないのか。

彼は鼻の部分図を取り上げて、白い顔の上に置く。

するとその部分図は、つるりと滑り落ちた。

滑り落ちる?

福笑いのピースが滑り落ちることなどあるだろうか。あるわけがない。しかし紙はひらひらと舞い落ちている。

彼は目を開いたまま、その遊びを統けた。両目を手に取り、白い顔に載せる。同じことだ。二つの目はは、鼻と同じように落ちた。口の部分図を取り上げる。下手くそに描かれた分厚い唇だ。それを白い顔の輪郭の中に置く。すると紙はまた滑り落ちた。駄目だ。これでは福笑いにならない。彼は口の部分図に唾をつけた。そして顔に貼り付ける。よかった。止まっている。斜めに貼り付けられた口は、つかの間その位置にあったが、やがてひらりと落ちた。台紙は畳の上に、水平に置いてあるはずなのに、何故ピースが落ちる……落ちる、などということがあるのだろう。そういえば、台紙に描かれているはずの、この顔の髪が、女のように長いのは何故だろうか。七三分けの、男の絵のはずなのに。しかも首から下がある。赤っぽい、あるいは海老茶色の着物を着ているようだ。座っている。枕元に正座している。魚が腐ったような匂いもする。指からは鋭い爪が、獣のように長く伸びている。

孝は再び、鼻の部分図を取り上げる。そして入念に唾を付け、静かに貼り付ける。描かれた鼻を、白い顔の上に。

ざらざらした白い……白い、微かな起伏以外には何もない、——福笑いの台紙に描かれた顔のように何もない——真っ白い女の顔の上に。

その後、二人のお菊さんを見た者はない。

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