薦 島田荘司
以前「本格ミステリー宣言」という本を書いた時、結びの一句として、この日本列島に、現在の推理文壇を震撼させるオ能が潜んでいると信じている、と書いた。麻耶雄嵩君の「翼ある間」を読み終えた第一印象は、やはり潜んでいた、やはり現われたな、というものだった。
読み終えて間がない今の気分として、自分は、どのような賛辞でも、思いつくままここに書く用意がある。この作品は、それほどに素晴らしいものである。
またこうも思う。かって綾辻君をはじめとする新本格の人たちを推薦した折、文壇や巷間からさんざん手ひどい批判を浴びたが、この作品に関しては、とれほど持ちあげても、その種の非難は受けないだろうという気がする。文章力ひとつをとっても、この作品はそれほどに成熟している。
彼の年齢(平成三年三月現在二十一歳)ということを考えればこれは真に驚くべきことであるが、若さにふさわしい挑戦心、不敵さ、もまたあふれるほどに作中にみなぎっていて、両者は危ういパランスを保っている。この均衡のスリルを目撃するためだけでも、この本を体験する意義がある。またこの両者の均衡があまりにスリリングであるため、クライマックスの息を吞む空中回転があったのだろうと思う。
この両者とは、一方は完成度の高い文章力に象徴される「老成」の意識であり、もう一方は、あらゆる意味での「若さ」である。まるで本格推理の読書世界に純粋培養されたような突進する思考力、これは本人にも制御しきれないほどではないか、そして完成された本格物のセオリーへの懐疑、挑戦心、破壊への願望、こういう、若さが持つ特有の危うさである。この両者を完璧に持つことは、これまで三島由紀夫とか、ごく限られた才能にしか許されなかったことで、このような奇跡が一個人のうちに宿ると、自己崩壊に似た波乱が起こる。
これをコントロールするすべなど誰にもなく、ただうまくいくよう祈るだけだが、この作品のラストにおいては、鋭い才能故に自らの足場も侵してしまい、立つ場所を喪失したひとつの天分が、必然的にくるくるとアクロバットを演じる羽目に追い込まれていく様子を、読者は目撃することができる。これは早熟の天才にのみ起こる、ダイヤモンドダストとか、セントエルモスファイヤーにも似た珍しい現象であると思う。二度はむずかしいこういう現象を真空パックした、これは一九九一年度の貴重な収穫だ。
そして批判を受けるとしたら、こういうものを含む、彼のほとんど傲慢ともいえる作家性、思想への反撥ではあるまいかと予想する。
読み進むにつれ、ポテンシャルを秘める読者は、このミステリーが単に三、四十年前の古典期の復興であり、清張リアリズム、それとも文学接近の時代を通過した痕跡の乏しいことに反感を抱くであろう。そして木更津という古式ゆかしい名探偵が登場し、彼が神のごとく持ちあげられるに及んで、怒りが湧くに違いない。この平等の時代、この種の誤りは過去にうち捨ててきたはずである。これは日本で推理作家を標榜する以上、暗默の了解であったはずだ!
ところが堀井と名乗る刑事が現われ(作者の本名は堀井)、この天才探偵が作者の投影でないことを知り、おやおやと思いはじめるだろう。続いてメルカトル貼という真打の登場で、ああでもやっぱり名探偵という自己愛の産物を、この作者は必要としているのか、などと勘違いするだろう。
後半、すさまじい怪現象が起き、こんな馬鹿げた現象をそのまま押し通そうとする気か、やはり若いな、こいつをせいぜい攻撃してやろうと手ぐすねひいていると、これも作者によってひっくり返される。
作者の意図は、実はそのようなところには最初からない。名探偵への色気がむらむらとあるのだが、オトナたちへの配慮からとりあえずおさえ、よって気分が少々消化不良を起こしてしまっている、などということでもまったくない。彼の作家的意図は、まるきり別次元の高みにある。そのあたりでうろうろする平均的な評論家は、この作品の結末にいたって失語症となるであろう。かくして、お定まりの無視ということになる。
日本人はネガ(アラ)をめざとく捜し出す類いまれな才能があり、この能力をもってついにモノ造り世界一となったわけだが、このやり方が効果をあげるのは、対象が大衆消費財の場合に限ってのみである。
日本人は職人芸を至上のものとするので、常に頭領たるプロになりたがり、この高みからの若輩者への威圧、というのが判で押したような最終到達地点である。このやり方は日本人が造り出すものなどすべからく職人が量産する大衆消費財、とみくびってかかる大前提故だが、それは日本人たる自らの劣等意識の発露、と疑ってかかる自己分析の方はいっさいできない。そこで、他人に厳しく自分に優しいこの種の行ないが許される政治的地位を、ただひたすらめざすことになる。そうして、自らの攻撃対象が、ありふれた大衆用品などではなく、もしかするとアートかもしれないという発見は、すべて外国人にまかせてしまう。残念ながらここには、自信喪失の自己から脱出したいという、個人的事情が存在するばかりである。
相手がもしアート作品であれば、この種の仕事は大した意味を持たなくなる。日本車が相手ならネガ捜しもなかなか効果があるが、フェラーリやポルシェが相手では、さしたる意味がない。ゴーガンやゴッホは、自らをプロと威張ったことは一度もないだろうし、彼らの描く人物の右手が左手よりちょっと大きいなどという欠陥を見つけて書きたてても、大した意味はない。
さよう、本書のような作品が現われるに及び、日本の推理文壇における評論家は、もはや意識変革を迫られていると知らなくてはならない。時代は変わろうとしているのだ。それも、決して悪い方向へではない。推理小説はすべからく文学に劣る、幼稚な大衆読み捨て物ではあり得なくなりつつある。古い価値観を守ることだけが正義ではない。そういう行為は、大よそ自分で気づいておられる通り、実は政治配慮による保身、という比重が今後ますます増していくであろう。ゆるやかに世界水準に達しつつある日本のミステリーの、足を引っぱるようなことをしてはならない。
この作品は、革新的であるが故に必ず同時代人の批判を浴びる運命にある過去の諸名作同様、評論、あるいは批評家というものの役割を、深く僕に考えさせる。
評論家にしても、賞にしても、本来その目的とするところはたったひとつなのだ。これは、それが属するジャンルの文化的成果、つまり推理小説評論家なら日本の推理文化であるが、これを向上させること、それ以外に目的などないのである。これは誰もが知っている。しかし、誰もがすぐに忘れてしまう。
以下はむろんすべての評論家をイメージして書くわけではないが、評論家自身の知名度の向上、地位の上昇などは、正当な取り引きの末のおつりのようなものである。おつりが目的となってはいけない。貯金とは、着実におつりを貯めていく方が結局は増えるものだ。身を寄せる大樹からリークされてくるインサイダー情報により、一授干金をもくろんでも、それは煙のようなもの、歴史の風に吹きとばされ、五十年後には跡形もないであろう。
この作品は、鹿爪らしい名探偵を否定し、密室を否定し、もっともらしいトリックを否定し、一般的な意味での見立て殺人を否定し、結論を導き出す自らの推理さえたびたび否定する。したがってこの作品もまた、究極的なアンチミステリーと呼ぶべきかもしれない。
若い作者の本書は、批判の洗礼を浴びなくてはならないと例のごとく結論を固定する人々は、彼自身が誰よりも本格物の形式的な思想に反撥する、つまり自分たちとそれほど遠くない人物であることをまず見て欲しいと思う。そして、このようにすればこの作品がより良くなる、という具体的な提案をのみ、批評として彼に与えて欲しいと思う。
とはいえ、この作品にも弱点はある。自分はその点に気づいてもいるが、それはここには書かない。また彼の若さを考えれば、それは弱点とも言いがたい。この作品は世に選っていくだろうから、十年後、十五年後に少しずつ筆を加え、タイムカプセルにおさめるべく徐々に磨いていってくれればそれでよいのである。