『法月綸太郎の消息』

あとがき

 本書は二〇一七年以降に書いた〈法月綸太郎シリーズ〉の中短編をまとめたものです。シリーズ第一作『雪密室』(講談社ノベルス)が一九八九年(平成元年)の作品なので、ちょうど初登場から三十年目の新刊ということになります。

 シリーズ前作『犯罪ホロスコープⅡ 三人の女神の問題』(カッパ・ノベルス)から数えると七年ぶりの本で、ぐずぐずしているうちにすっかり間が空いてしまいました。この間、遊んでいたわけではありませんが、『ノックス・マシン』(角川書店)、『怪盗グリフィン対ラトウィッジ機関』(講談社)、『挑戦者たち』(新潮社)といった変化球ばかり書いていたのは、現代の日本を舞台に古風なアマチュア名探偵のシリーズを書き続けることが、ますます重荷になってきたからです。それは単に自分が年を取って頭が鈍にぶくなり、筆力が衰えただけなのかもしれませんが。

 ただ、若いうちは目もくれなかった題材に、本格の面白さを見いだせるようになったというプラス面はあるでしょう。本書は安あん楽らく椅い子す探偵形式に焼きなましアニーリング処理(金属を熱した後で徐々に冷やし、ひずみや硬さを低減する作業)を施したような二編を、「名探偵の晩年」という主題を扱ったメタミステリー二編でサンドイッチした構成になっていますが、いずれのアプローチも血気盛んな頃にはできなかったと思います。

 久しぶりのシリーズ新作であることと、ややレイドバック気味の仕上がりになっていることから、今回は『法月綸太郎の消息』という気楽なタイトルにしてみました。「生存確認」と言い換えてもいいかもしれません。

 以下、収録作品について若干のコメントを記しておきます(真相の一部に触れている箇所もあるので、本文未読の方はご注意を)





「白面のたてがみ」(書き下ろし)

 冒頭に記した通り、「シャーロック・ホームズにまつわる謎」への取り組みを小説化した作品。最後はうやむやにしてしまったが、こういう根も葉もない思いつきは、ホームズ・パロディやまっとうな評論にはそぐわないだろう。ちなみにG・K・チェスタトンとハリー・フーディーニの間に接点があったかどうか、にわか仕込みのリサーチでは確定できなかった。もしご存じの方がいたらご教示願いたい。

 オカルト研究家の堤豊秋は、『犯罪ホロスコープⅡ 三人の女神の問題』の「錯乱のシランクス」「引き裂かれた双魚」に登場した人物で、準レギュラーの阿久津宣子と飯田才蔵も一編ずつ顔を出している。本編はその後日談に当たるが、前の話を読んでいなくても特に支障はない。

 コナン・ドイルと心霊主義の関わりについては、主にダニエル・スタシャワー『コナン・ドイル伝』(日暮雅通訳、東洋書林)の記述を参考にした(コナン・ドイルの名前の表記に関しては、同書の「解説とあとがき」を参照)。ホームズ作品からの引用、および邦訳タイトルも日暮雅通氏の『新訳シャーロック・ホームズ全集』(光文社文庫)に基づいている。ただし冒頭の引用箇所のみ、深町眞理子訳「〈三破風館〉」(『シャーロック・ホームズの事件簿【新版】』/創元推理文庫収録)を使用した。

 南條竹則氏による新訳版『詩人と狂人たち』(G・K・チェスタトン、創元推理文庫)に付されたJ・G・ウッドに関する註がなければ、本編の着想は生まれなかっただろう。記して感謝を表したい。なお、チェスタトン『奇商クラブ』からの引用に関しては、同じ南條氏の新訳がすでに同文庫から刊行されているが、作中の時系列の都合で、中村保男氏の旧訳(創元推理文庫)を用いたことをお断りしておく。

「あべこべの遺書」(『7人の名探偵』講談社ノベルス、二〇一七年九月刊)

「新本格30周年記念アンソロジー」として刊行された文芸第三出版部編『7人の名探偵』に書き下ろした短編。綾辻行人・歌野晶午・有栖川有栖・我孫子武丸・山口雅也・麻耶雄嵩の六氏との共著である。

 法月シリーズを書くのは、前記「引き裂かれた双魚」以来、五年ぶりだったので、すっかり書き方を忘れていた。都筑道夫『退職刑事』もどきの安楽椅子探偵形式なら、どうにかなるだろうと高をくくって、見切り発車で書き始めたものの、なかなか着地点が定まらず、何度も投げ出しそうになった。前半がおずおずしているのはそのせいである。

 かろうじて締め切りには間に合ったものの、初出バージョンはほうぼう穴だらけで、目も当てられない出来だった。今回の単行本化に当たり、全面的に加筆修正して、ようやく人前に出しても恥ずかしくない作品になったと思う。文字通り冷却期間を置くことで、推理のひずみを軽減したわけだが、そもそも安楽椅子探偵形式に向かないプロットを無理やり鋳型に押し込んだ感は否めない。

「殺さぬ先の自首」(「メフィスト」2018VOL.3・2019VOL.1)

「あべこべの遺書」のリベンジを期して、安楽椅子探偵形式に再挑戦した小説。「殺人が起こる前に犯人が自首する」という冒頭の謎は、都筑道夫『退職刑事5』(創元推理文庫)の「遅れた犯行」を下敷きにしたもので、四谷署に出頭する場面のやりとりが同作にそっくりなのは、本歌取りを明示するためにわざとそうした。容疑者の職業がグラフィック・デザイナーなのも「遅れた犯行」の設定にだいぶ寄せてある。

 この小説を発表するのと前後して、今村昌弘『魔眼の匣はこの殺人』(東京創元社)、澤村伊智『予言の島』(角川書店)が刊行され、私はすっかり弱り果ててしまった。いずれも「予言」をテーマにした長編だったからである。ただ、本編のミソは「なぜ法月警視はいちばん重要なデータを出だし渋しぶっているのか?」というところにあるので、ネタかぶりは大目に見てほしい。なお、綸太郎の母親云うん々ぬんのくだりは『雪密室』に出てくるエピソードで、自分でもすっかり忘れていたのだが、こういう形で再来するというのは、やはり三十年の節目と関係があるのかもしれない。

 閑話休題。これまで何度も触れてきたように、『退職刑事』シリーズは自分にとって短編本格ミステリーのお手本で、だからこそ人並み以上に、シリーズ後半のふらつきぶりに対してずっと煮えきらない思いを抱いていた。ところが「あべこべの遺書」と本編を書いている間、対話形式の推理がロジックの自重に振り回され、横道にそれていくことが何度もあって、ああ、これが『退職刑事』シリーズの後期作品に迷走をもたらした元凶だなと、後ればせながら実感したようなところがある。

 都筑氏のような小説の達人と、私のようなボンクラの感想を一緒にするのはおこがましいけれど、『退職刑事5』のラストで、「推理だけでは、謎はとけないんだ」(「Xの喜劇」)と愚ぐ痴ちをこぼしたくなる気持ちもわかるような気がした。純粋な安楽椅子探偵形式を何度も使っていると、どうしても論理が機能不全に陥おちいって、すっきりした解決を拒こばむ方向に流されがちになるからだ。それでも、もうしばらくは「推理だけで謎を解く」ことにこだわって、ジタバタ悪あがきを続けるしかないと自分に言い聞かせている。

「カーテンコール」(「メフィスト」2018VOL.1・VOL.2)

 アガサ・クリスティーの名探偵エルキュール・ポアロ論を小説仕立てにした中編。二百枚近い分量があり、作家論としてもかなり踏み込んだ内容になっていると思う。その分、多くの作品の真相に触れざるをえなかったが、できるだけの配慮はしたつもりだ。前半部分は、探偵小説研究会編の同人誌「CRITICA」第5号(二〇一〇年八月刊)に掲載した評論「なぜジョージに頼まなかったのか?」を元にしている。ギリシャ神話への言及が多いのは『犯罪ホロスコープ』の流れを汲むものだが、そもそも同連作は『ヘラクレスの冒険』を下敷きにしているので、こういう小説が派生するのはある意味必然だったかもしれない。

 クリスティーに関しては、前にも「引き立て役俱ク楽ラ部ブの陰謀」(『ノックス・マシン』収録)という短編でネタにしたことがあるけれど、一九三〇年代までの作品にしか触れられなかったのが心残りになっていた。今回、戦後のポアロ作品をまとめて読み直し、あらためてクリスティーの偉大さを再認識できたのは、霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略』(講談社)の示し唆さに負うところが大きい。

 劇団「アルゴNO.2」のロザムンド山崎と細川畝明は、『犯罪ホロスコープⅠ 六人の女王の問題』(カッパ・ノベルス)の表題作に登場している。女装タレントのロザムンド山崎を引っぱり出してきたのは、クリスティー作品を口頭で議論する場に、翻訳小説特有の女性役割語を話す人物がいてほしかったから。この小説はいわゆる多重推理方式を採用しているが、三者三様の推理がすべて同じ結論にたどり着くところは、中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫)の「終章」をほんの少しだけ意識した。

 クリスティー作品からの引用は、現在流通しているクリスティー文庫(早川書房)の訳文に基づいている(詳しくは「おもな引用・参考文献」リストを参照)。ただし『五匹の子豚』のみ、旧版の桑原千恵子訳を参考にした。現行の山本やよい訳に差し替えることも考えたけれど、綸太郎なら旧訳を読んでいる方が自然だろう。

 また冒頭の引用は、エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」(丸谷才一訳『ポー名作集』/中公文庫収録)のエピグラフに、若干の変更を加えたものである。トーマス・ブラウンの原典は『壺こ葬そう論』という古代の埋葬法を論じたエッセイなので、名探偵の墓を掘り返す話にはうってつけではないだろうか?





 本書をまとめるに当たっては、講談社の都丸尚史、泉友之の両氏、並びにカバーデザインの坂野公一氏とカバーイラストのyoco氏にお世話になりました。この場を借りて、感謝の辞を記します。

 ではまた、次なる冒険でお会いしましょう。

二〇一九年七月
法月綸太郎

文庫版あとがき

 本書の単行本は新型コロナウイルスが猛威を振るいだす前、二〇一九年九月に刊行された。この三年ほどで世の中はすっかり様変わりしてしまったが、一から十まで悪い方へ変わったわけでもない。たとえば二〇二一年には、「白面のたてがみ」でほんの少しだけ触れたチェスタトンの戯曲「魔術」が南條竹則氏によって初めて邦訳された。『裏切りの塔 G・K・チェスタトン作品集』(創元推理文庫)に「魔術──幻想的喜劇」という題で収録されている。実を言うと、ちゃんと読んだのは私もこの訳が初めてだ。

 チェスタトンの翻訳といえば、今回「白面のたてがみ」の中で『ブラウン神父の秘密』(中村保男訳)の引用を一部変更した箇所がある。校閲から犀さい利りな指摘を受けて、同書の新版から旧版の訳文表記に改めたのだが(逆ではない)、作中の時系列に齟そ齬ごが生じるようなポカではないので念のため。

 ところで、文庫版のゲラを読みながらもうひとつ気づいたことがある。「白面のたてがみ」の3章で、綸太郎は『シャーロック・ホームズの事件簿』と『ブラウン神父の秘密』が一九二七年に相次いで出版されたことに注目しているが、「カーテンコール」の鍵となるクリスティーの『ビッグ4』が出たのも同じ年ではないか。

「白面のたてがみ」では、長編本格探偵小説の台頭でシャーロック・ホームズとブラウン神父は「時代遅れの存在」になりつつあった、と決めつけているけれど、次世代のエースと目されていたクリスティーも、前年暮れの失踪事件の影響でスランプのどん底だったのを忘れてはならない。ホームズ・コンプレックスをこじらせたような『ビッグ4』は、旧作を性急にまとめた苦しまぎれの本で、けっして満足の行く出来ではなかったはず。無理に抑え込んだものは、いずれ再来するということである。

 同じ一九二七年、禁酒法下のアメリカ、シカゴでジェイムズ・ヤッフェが生まれた。

 ヤッフェは安楽椅子探偵アームチェア・ディテクティヴ形式の最高峰と評される〈ブロンクスのママ〉シリーズの作者で、同シリーズを一巻にまとめた『ママは何でも知っている』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、都筑道夫が同じスタイルの『退職刑事』を書く際、お手本にした珠玉の短編集だ。長いブランクの後、ヤッフェは舞台と人間関係を一新して〈メサグランデのママ〉シリーズを再開、ドルリー・レーンの「悲劇四部作」の向こうを張って、四つの長編を完成させる。その最終作『ママ、噓を見抜く』(創元推理文庫)はクリスティーの『カーテン──ポアロ最後の事件』とは異なる角度から、『レーン最後の事件』の真相超えに挑戦した野心作だったのではないか。

「殺さぬ先の自首」に綸太郎の母親云々の話が出てくるのは、ヤッフェのシリーズから『退職刑事』が消去したものについて考えていたせいもあるだろう。ここらへんの詳細は『法月綸太郎ミステリー塾 怒濤編 フェアプレイの向こう側』(講談社)に収録した「ママの名前を誰も知らない」「ヤッフェ覚え書き」に記しておいたので、興味のある読者は本書と併読されたい。

~Lee Konitz Nonet / Old Songs New(2019)を聴きながら

二〇二二年八月
法月綸太郎

おもな引用・参考文献

「白面のたてがみ」

 アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの事件簿』(日暮雅通訳、光文社文庫)

 アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの事件簿【新版】』(深町眞理子訳、創元推理文庫)

 アーサー・コナン・ドイル『わが思い出と冒険──コナン・ドイル自伝』(延原謙訳、新潮社)

 ダニエル・スタシャワー『コナン・ドイル伝』(日暮雅通訳、東洋書林)

 J・K・バングズ『ラッフルズ・ホームズの冒険』(平山雄一訳、論創社)

 ローズマリ・E・グィリー『妖怪と精霊の事典』(松田幸雄訳、青土社)

 G・K・チェスタトン『詩人と狂人たち』(南條竹則訳、創元推理文庫)

 G・K・チェスタトン『ブラウン神父の不信』(中村保男訳、創元推理文庫)

 G・K・チェスタトン『ブラウン神父の秘密』(中村保男訳、創元推理文庫)

 G・K・チェスタトン『ブラウン神父の醜聞』(中村保男訳、創元推理文庫)

 G・K・チェスタトン『奇商クラブ』(中村保男訳、創元推理文庫)

 G・K・チェスタトン『正統とは何か』(安西徹雄訳、春秋社)

 G.K.Chesterton: Irish Impressions

 G.K.Chesterton: G.K.Chesterton's Sherlock Holmes(Baker Street Irregulars Manuscript)

 Harry Houdini: Houdini on Magic(Edited by Walter B.Gibson&Morris N.Young)

 The Arthur Conan Doyle Encyclopedia(https://www.arthur-conan-doyle.com/)

 G.K.Chesterton Web Site(http://www.gkc.org.uk/gkc/)



「あべこべの遺書」

 江戸川乱歩『明智小五郎事件簿 Ⅶ「吸血鬼」』(集英社文庫)

 KEGG MEDICUS(https://www.kegg.jp/kegg/medicus/)



「殺さぬ先の自首」

 都筑道夫『退職刑事5』(創元推理文庫)



「カーテンコール」(*付き作品はすべて、アガサ・クリスティー著、クリスティー文庫。括弧内の数字は、英コリンズ社版の原著刊行年)

*『アクロイド殺し』(羽田詩津子訳、一九二六)

*『ビッグ4』(中村妙子訳、一九二七)

*『青列車の秘密』(青木久惠訳、一九二八)

*『三幕の殺人』(長野きよみ訳、一九三五)

*『雲をつかむ死』(加島祥造訳、一九三五)

*『ABC殺人事件』(堀内静子訳、一九三六)

*『ひらいたトランプ』(加島祥造訳、一九三六)

*『もの言えぬ証人』(加島祥造訳、一九三七)

*『五匹の子豚』(桑原千恵子訳、一九四三)

*『ゼロ時間へ』(三川基好訳、一九四四)

*『ホロー荘の殺人』(中村能三訳、一九四六)

*『ヘラクレスの冒険』(田中一江訳、一九四七)

*『満潮に乗って』(恩地三保子訳、一九四八)

*『マギンティ夫人は死んだ』(田村隆一訳、一九五二)

*『死者のあやまち』(田村隆一訳、一九五六)

*『複数の時計』(橋本福夫訳、一九六三)

*『第三の女』(小尾芙佐訳、一九六六)

*『ハロウィーン・パーティ』(中村能三訳、一九六九)

*『象は忘れない』(中村能三訳、一九七二)

*『カーテン』(田口俊樹訳、一九七五)

*『アガサ・クリスティー自伝(上・下)』(乾信一郎訳、一九七七)

 アガサ・クリスティー&ジョン・カラン『アガサ・クリスティーの秘密ノート(上・下)』(山本やよい・羽田詩津子訳、クリスティー文庫)

 モニカ・グリペンベルク『アガサ・クリスティー』(岩坂彰訳、講談社選書メチエ)

 西村京太郎『名探偵に乾杯』(講談社文庫)

 山室静『ギリシャ神話』(現代教養文庫)

 川島重成『『イーリアス』ギリシア英雄叙事詩の世界』(岩波書店)

 エドガー・アラン・ポー『ポー名作集』(丸谷才一訳、中公文庫)



 等の記述を参考にさせていただきました。

 また本書では、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を始めとして、数多くのインターネット情報を利用しています。その範囲があまりにも多岐にわたるため、個別の言及は割愛せざるをえませんでしたが、この場を借りて、参照したすべてのテキストの著者に感謝の意を表したいと思います。

 引用の誤り、その他の責任は、すべて作者(法月)に属するものです。

解説

琳(ミステリ評論家)

 法月ミステリにはいつも、加速衝突によって生じた粒子崩壊のような、危うさと熱量を感じている。知的遊戯と殺人悲劇。文学とエンターテインメント。フォーマルとカジュアル。これらの概念同士が衝突し、反応し、そうして生じたエネルギーで吹き飛ばされかけた世界は、物語の効用でかろうじて支えつなぎとめられたかのようだ。『ふたたび赤い悪夢』(一九九二年)で探偵を苦悩させ本格ミステリを自壊に誘いざない、『生首に聞いてみろ』(二〇〇四年)で誤配を連鎖させスタティックな物語構造を宙づりにしたかと思えば、『ノックス・マシン』(二〇一三年)ではミステリ批評をSFの域にまで押し出し、「端正な本格」へ回帰した筈の『法月綸太郎の功績』(二〇〇二年)ですら、本格形式が地滑りし崩落し兼ねない、危うい鞍あん点てんに着地させられていく。

 これらはいずれも、娯楽小説を享受していた筈の我々の認識の根本に作用し揺さぶりをかける。崩壊により生じたエネルギーは読者の観念を励起し、やがて我々のミステリ観をも根こそぎ吹き飛ばしてしまうのだ。

 法月的なミステリ観は今日、古典作品の受容態度もすっかり変えてしまった。その影響はあまりに大きすぎるため、かえって見えにくい。おそらく法月的なエラリー・クイーン観のもとに育った近年のミステリ・ファンにとって、本格ミステリとはフェアなゲーム小説と同義であって、その最上の作品が国名シリーズである事に異論を挟む余地は少ないかもしれない。ところがかつて、クイーンは『災厄の町』(一九四二年)あたりでようやくリアリズム小説的な書き方ができるようになったと評価された時代が確かにあったのだ。そうしたクイーン受容がかつてのファンのフェアプレイ認識の甘さにしかないと思うなら、それはまさにあなたが法月的なミステリ観に搦からめ捕とられた証左なのだ。熱量高い批評は時に、その存在が自覚されなくなるまで徹底的に、ジャンル全体の空気を置換してしまう。法月らが生成したエネルギーで批評の世界に吹き飛ばされた筆者にとって、なによりそれが背景化した現実にこそ慄りつ然ぜんとさせられるのだ。



 本書『法月綸太郎の消息(The News of Norizuki Rintaro)』でもこの批評精神は決して衰えない。法月のキャリアを考えると、これ自体もまた驚異である。新本格ミステリは誕生からすでに三〇年を超え、かつてのムーヴメントの中心人物として伝説となった法月が、しかし今なおミステリ批評の先頭に立ち、アクチュアリティを維持し続けている事実は、ほとんど奇跡とすら思えてくる。

 だからといって身構える必要もない。読者は本書を娯楽小説として読んで構わないのだ。そのように読まれる事は恐らく、誰より法月自身が望んでいる筈だ。ここに作者の矜きょう持じがある。読者は本書をなにより娯楽作品として読み、作者のミステリ観に無自覚的に触れ、やがてちりばめられた膨大なコードを発見し魅入られ、気づけばいつしか、自分が遥か遠くにまで吹き飛ばされた事を知る。どこか晩年のクイーン作品を思わせるほどに、法月ミステリの近年の結構もまた、そのように奥床しくしつらえてあるものだ。ただ娯楽作品としてだけでなく、そこにひそむ作者の意図まで含めて味わいたい読者に向けて、ここで無粋ながら、本書の粒子崩壊をすこし実演してみたいと思う。



 ※以降で本書の核心に触れています。未読の方はご注意ください。



 本書は安楽椅子探偵形式二編を、「名探偵の晩年」にまつわるメタミステリ二編でサンドイッチした短編集である。安楽椅子探偵とは、科学捜査で物証エビデンスを増やし犯人を絞り込む、シャーロック・ホームズ流の探偵科学とは対照的な捜査法であって、そもそも法月のこの形式選択が意表をついている。かつてホームズ探偵学を実践し、形式論理学のまなざしでクイーンと対峙し、手掛かりへの懐疑──後期クイーン的問題を患った筈の綸太郎が、本書では手掛かり集めを屈託なく父親に委ね、主観の混じった〝便りNews〟から無邪気に推理ストーリーを組み立てているのだから。

 法月がこうした形式を選択する必然は、本書でも言及される、チェスタトンや都筑道夫への接近にある。たとえば本書には「人間を外側から見ようと」するホームズを批判した、ブラウン神父の次の言葉が引用されている。



「わたしは内側を見ようとする……そのわたしが、殺人犯の考えるとおりに考えるのです。殺人犯のと同じ激情と格闘するのです。やがてわたしには、殺人犯のからだの中に自分がいるのがわかってくる」「わたしは本当に殺人犯になるのです」



 人間は内側から見るべきとチェスタトンは言う。彼の人間観は、ブラウン神父譚を創始する二年前に上梓された批評『正統とは何か』(一九〇八年)のなかで詳細に解き明かされているので、法月ファンには一読をお勧めする。有名な「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」という逆説が物語っている通り、チェスタトンはここで、クイーンがミステリを形式的に純化し隘あい路ろに至り、法月が理性の限界に煩はん悶もんする遥か以前に、すでにその病理を見抜き「狂人」と喝破し、処方箋までも論じていたのだから。

 本書で『正統とは何か』を参照する法月の、かつての懐疑論との距離感は明解だ。「人間を内側から見る」とは、つまりは犯人の意図を察する行為であって、まるで作品から作者の意図を読み解く〝批評〟のような探偵法ナラティヴである。これはまさに安楽椅子探偵のように、世界の輪郭が淡くなり、人物の奇妙な〝うわさNews〟にこそ焦点が結ばれた、どこかメルヘンの香気漂う謎物語においては威力を発揮する。チェスタトンの影響が色濃い都筑は、後にこれを「ホワイダニット」と呼び自身のミステリ観の基礎に据え、いわゆる「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」論として深耕していく事になる。

 さらに補助線を加えよう。かつて法月は「『黄色い部屋はいかに改装されたか?』について、もう少し」(二〇一三年、『法月綸太郎ミステリー塾 疾風編 盤面の敵はどこへ行ったか』所収)のなかで、「休暇中のメグレが『新聞にでる記事を読んで、一般大衆とおなじように、事件を推察しようとする』」作品に触れ、そこに向けられた都筑のまなざしから彼のミステリ観の分水嶺を読み解いた。この論考を今日改めて読み返すと、カフェのテラスで〝報道News〟に目を向けるメグレの姿は、『消息News』で古典ミステリを読み耽ふける綸太郎のそれに、どこか重なって見えてくる。「犯人は創造的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎぬ」というブラウン神父のセリフを引くまでもなく、本書で綸太郎が行うテクスト批評は、メグレが新聞記事に対し行った安楽椅子探偵に限りなく近接して見えてくるのだ。

 さらには晩年の名探偵たちが緞どん帳ちょうの内側でカーテンコールを待つなか、綸太郎だけ何故かその外側に立ち、客席に背を向け舞台奥を眺める表紙絵を見る事で、いよいよスポット照明の向きが定まり、本書の核心も浮かび上がって見えてくる。

 あらためて、本書で法月は、古典テクストを批評するメタミステリ二編を安楽椅子探偵形式二編の外側に配置したのだった。つまり本書は、「内側から見る」と安楽椅子探偵があたかも批評のように、そして「外側から見る」と批評があたかも安楽椅子探偵のように、まるで舞台と客席、演者と観客とが置換対称になったような、リバーシブルな「第四の壁」を形成しているのだ。探偵と批評家ストーリーテラー、世界とテクスト、対象レベルとメタレベルがルビンの壺の図地反転の如く転移し「カーテンコール」を迎える本書において、後期クイーン的懐疑の緞帳もまた、巻き上げられていく事になる。



 かつて「人間が描けていない」と批判された新本格ミステリは、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイとは水と油の関係のようでもあった。新本格を擁護する「初期クイーン論」(二〇〇七年、『法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術』所収)の風圧で、法月がジャンルの空気を置換してみせた後、近年の本格シーンにおいて都筑のミステリ論は、どこかアクチュアリティを失って感じられた。その法月が現代に至りチェスタトン、都筑のミステリ観を自身のそれに衝突させ新たな粒子崩壊を目もく論ろむのは、むろん「成熟と喪失」の帰結などではあり得ない。筆者の実感ではそれは、現代社会の変容と深く関係しているのだ。

 近年SNSの普及によって、世界の輪郭は淡くなり、コミュニケーションは〝うわさNews〟に基づくテクスト批評に変貌し、他者は内側を外側に剝むき出したかのような〝キャラ〟に還元されつつある。そうした記号と実在、テクストと世界、内と外が置換対称になってしまった現代社会のリアリティの変容は、旧来のミステリ観も大きく揺さぶっている。本書がこうした、どこかメルヘンの香気すら漂う現代社会に向けた法月的応答に他ならない事は、テクスト批評でクラシカルな名探偵キャラをアップデートした綸太郎の推理が、まるで円居挽『丸太町ルヴォワール』(二〇〇九年)や城平京『虚構推理 鋼人七瀬』(二〇一一年)のように、推理の強度でキャラをアップデートする現代ミステリのそれを連想させる事からも察せられる。要するに法月は、キャラ立ちとテクスト批評に収しゅう斂れんしていく現代的コミュニケーションを安楽椅子探偵形式に加速衝突させ、クラシカルなミステリコードを時代の最先端にまで押し出して見せているのだ。



 法月が娯楽作品に潜ませた、本書の核心とその圧力を体感いただけただろうか。もしあなたのミステリ観の地表が根こそぎ吹き飛ばされ、地中の断層までも剝き出しになり、そしてそうなってしまったからこそむしろ、断層のさらに奥深くまで掘り進みたくなっていたら、ひとまず休んで心身を整えたうえで、最新評論集『法月綸太郎ミステリー塾 怒濤編 フェアプレイの向こう側』(二〇二一年)に手を伸ばすのがよい。そこで、〝ポスト・ヒューマン〟としか言い表せられないほど異能化させられた実存をめぐって、作者との間に繰り広げられた知られざる名探偵の格闘バトルを〝ケア〟する法月のまなざしに気付く事で、本書の別の側面もまた姿を現す筈だから。

 名探偵は時代から逃れられない。この言葉をなぞるようにして、時代の移ろいに自身のミステリ観を加速衝突させ崩壊させ、そうして生じた反応でジャンルの空気を置換する法月の思索は、今後も本格ミステリを生まれ変わらせ続ける事だろう。本書のあまりの熱量に、またもそれまでの持論を吹き飛ばされた筆者にとって、そうした期待は否が応でも抱かざるを得ないのだ。

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